クライバーン・コンクールは今日がファイナルの3日めです。昨日は、辻井伸行さんを含め、私がもっとも気に入っている3人の演奏があり、それぞれとても幸せな気持ちにさせてくれる演奏で、私は至福の思いでした。演奏については、クライバーンコンクールの正式ブログ(なんていうものを私なぞが書いていること自体ちょっと信じられませんが)のほうを見てください。
ここでは、ちょっと違う話題。今回はちょっと違う話題です。すなわち、「アメリカのピアノオタク事情」。
日本には、どんな分野にもそれぞれのオタク文化というものがあります。なかでも、クラシック音楽は、そうしたオタク的趣味を引きつけてやまない分野です。曲や作曲家についての深い知識や、演奏に関する高度な審美耳、そして、誰それの何年の何版のレコーディングが云々といったことに関して、信じられないほどのこだわりをもっている、いわゆる「クラシックオタク」「ピアノオタク」。
私自身は、そのオタクの範疇にはまったく入りません。そもそもどんな分野にしろオタクになれるほどの集中力と持続性がないのです。自分が好きなものにはこだわりがありますし、本職は学者ですからものを知ったり調べたり考えたりすることはもちろん好きでうが、人が知らないことを知りたいといった衝動もないし、ものを集めたりといったことにはとんと興味がないのです。私はかつてかなり真剣にピアノをやっていたのですが、結局音大進学をやめて、東大に行ったのですが、入学当時、サークル(バブルの後期だったのでちゃらちゃらしていたんです)を探しているときに、「東大ピアノの会」というものの存在を知って、一応ちょっとのぞいてみました。しかし、そのあまりにもオタッキーな雰囲気に、私はとてもじゃないけれど入り込めないものを感じ取り、関わらないままで大学生活を終えました。人に聞くところによると、私がそのときに感知した空気というのは、いまだに綿々と受け継がれているらしく(なにしろ、クラシック音楽というオタクを寄せつける分野と、東大生というオタッキーが集まりがちな集団の重なる部分ですからね)、たしかにこの会の演奏会のプログラムなどを見てみると、私は聞いたこともない作曲家の作品ばっかりだったり、有名な作曲家の作品でも、ほとんど演奏されないような曲だったりして、選曲からしてオタッキーなのです。ショパンのノクターンとかを呑気に弾いていたら馬鹿にされるんじゃないかという雰囲気。そして、みんなやたらと上手い。
私は、こうしたオタク文化、とくにクラシック音楽やピアノをめぐるオタク文化というのは、日本独特のものかと思っていました。が、Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicのためのリサーチを始めた頃から私は、アメリカにも「ピアノオタク」という集団がいるんだということを知りました。アメリカのピアノオタクは、日本のそれと共通する特性ももちろんたくさんあります。とにかくピアノ音楽の歴史に無茶苦茶詳しい。私は「それってどの時代のどこの国の人?」って言ってしまうような作曲家をたくさん知っている。大きなレコードやCDのコレクションをもっていて、今でも好んでLPを聴く。ピアノの演奏会やらピアノ音楽に関する講演会やらには必ず現れるし、有名な演奏家だけでなく若手(まだ学生をしているような人たち)のなかにも自分がとくに目をかけているピアニストがいて、彼らのキャリアをおっかけ風にフォローしている。などなど。
でも、アメリカのピアノオタクの面白いところは、彼ら(こういう人はたいてい男性です)の多くは、自分自身はピアノを弾かない、ということです。昔少し習ったことがある、という人はいますが、多くの人は、今は自分では弾かず、もっぱら聴くのと蘊蓄をたれるのが専門。そんなにピアノが好きならちょっとくらいは自分も弾けばいいのに、それだけ聴いていたら弾きたくならないのかな、と端から見ていて思うくらいですが、もしかしたらそれだけ耳が肥えてしまうと、普段から聴き慣れているものと自分が出す音のギャップが激しすぎて耐えられない、というのもあるのかもしれません。
そして、私の友達のピアニスト(彼はブルックリンに住んでいるプロのピアニスト)の観察によると、こうしたピアノオタクのおじさんたちは、「必ずしもゲイではないのだが、独身であることが多く、みんなお母さんと一緒に住んでいる」。これはなんだか大笑いしてしまう観察です。どれだけ統計的に正確か知りませんが、たしかに私の思いつくだけでも、この描写に当てはまる人が何人もいます。アメリカでは、高齢の親の介護が必要だからといった事情でもないかぎり、大人が親と同居するというのはかなり珍しいことなので、それがまたオタッキーな雰囲気を強化します。
もちろん、自分が弾くピアノオタクもいます。かなりの高レベルで弾く人も多く、アマチュアのコンクールに出まくっているような人たちもいます。クライバーン財団は1999年からアマチュアのためのピアノコンクールも主催していて、次回の2011年のコンクールには私もぜひ出たいと企んでいるのですが、これに出場するような人たちは、医者だのエンジニアだのと忙しい仕事をしたり家族生活を送ったりしながら、やたらめったら高レベルの演奏をします。私は、普段住んでいるハワイで、Ivory League(「アイビーリーグ」をもじった名前)という名前のグループに入っているのですが、これはアマチュアのピアノ同好家10人ほどの集まりで、レベルはピンからきりまでまちまちですが、一ヶ月半に一度くらいのペースで、誰かの家に集まって、それぞれが練習している曲をお互いのために弾いたり、連弾をしたり、趣味でバイオリンやクラリネットをやる仲間を連れてきて一緒に弾いたりするのです。アマチュアが趣味でピアノをやる場合、たいていは家で自分ひとりで練習するだけで、人のために弾くという機会がないので、これはとてもいいです。で、このグループの中心となっているふたりは、それこそピアノオタクで、私が聞いたこともない名前の作曲家の曲の楽譜を、どうやって見つけるのか知りませんが手に入れてきて、とても嬉しそうに、そして驚くほど上手に、演奏するのです。そのうちのひとりは、今回のクライバーン・コンクールの様子もネットで逐一フォローしていて、毎日「あの演奏はどうだった」とか「あいつはまったく気に入らん」とか、やたらと細かいコメントを私にメールで送ってきます。
でも、私の印象では、今回のクライバーン・コンクールを見にわざわざ出かけてきている人たちや、熱心にネットで演奏を見聴きしているような人たちの多くは、自分はほとんどピアノを弾かない人たちのように思います。私にしてみれば、自分がピアノを弾きもしないのになぜ人の演奏を聴くことにそこまで熱心になれるのか、そちらのほうに感心するような呆れるような思いですが、彼らの熱意、そしてそうしたピアノオタク同士の連帯感はなかなかスゴいものがあります。私はシーズンチケットで予選からすべて同じ席で聴いているので、近くの席で同じようにずっと聴いている人たちとは、しぜん仲良くなります。私の隣の席の紳士は、趣味でビオラを弾いて、コミュニティ・オーケストラで演奏したりするとはいうものの、ピアノそのものは聴くのが専門。でも彼は、セミファイナルのときから、誰が室内楽はなにを弾いて現代曲はなにを弾く、といったことを整理した表を自分で作って(シーズンチケット購入者には、それぞれの出場者がなにを弾くかはすべて載っているなかなか立派なプログラムがもらえるのですが、ひとりひとりの頁をめくって見るのでは比較が難しい、ということらしい)もってきていたし、もちろん、自分なりの採点表(彼の方式では、室内楽、リサイタル、コンチェルト1、コンチェルト2など各項目が20点満点)を作って、演奏を聴くごとに点を書き込んでいます。演奏と演奏のあいだの休憩時間には、周りの席の人たちどうし、感想を言い合って、もちろん意見が合わずに、「いや、僕はあれは気に入らなかった」とかなんとか、「あの曲はすばらしかったじゃないか」とか言い合っている風景もよく見かけます。なんだかとても微笑ましいです。
その隣の紳士は、私が辻井伸行さんのホストファミリーとしゃべっているときに、辻井さんのラッキーカラーがオレンジだということを聞きつけて、なんと先日、わざわざ私のためにオレンジのスカーフを買ってプレゼントしてくれました。しかも、予選の最中に彼は、「あなたにプレゼントがある」というので、なにを持ってくるのかと思ったら、なんと浴衣のセット。10年ほど前に乳がんで亡くなった彼の奥様は、もとアメリカン航空のスチュワーデスでよく日本にもフライトで出かけて、日本の文化をとても気に入っていた。あるとき、日本の友達が、彼女のために浴衣を仕立てて贈ってくれたのだが、彼女が亡くなって以来それはクローゼットで眠ったままになっていた。どうせだったら使ってくれる人に持っていてもらったほうが彼女もそれをプレゼントしてくれた人も喜ぶはずだから、と言って、まだ会って数日の私にそれをくださったのです。クライバーン・コンクールを見学にテキサスにやってきて、隣のおじさまに浴衣をいただくとは思いませんでした。素晴らしい音楽の生演奏を一緒に経験しているという状況から、こうした交流が生まれるのは、感動的なことです。(この話をすると、「そのオジサンは君に気があるんだろう」とよく言われますが、そういう雰囲気じゃまるでないんです。それに、私は以前からなぜか、10歳以下の男の子と、60歳以上のおじさまと、ゲイの男性にはとても気に入られるのです。肝心の、30代、40代の独身ストレート男性にも、同じように愛されるといいんですが。:))