2009年9月10日木曜日

ものの申しかたにもの申す

「日本はここがおかしい」といった乱暴なものの見方や言い方はしないように心がけているのですが、今回は単刀直入に、文句です。

ひとつは、日本語の論文や研究ノートなどの文章や、一部の書物でかなりよく見かける、「紙面が限られているので、ごく一部の議論しかできないことをお断りしておく」とか、「字数が足りないので、拙論の一部だけしかご紹介できないことをお許しいただきたい」とか、「〜については別稿にゆずりたい」とか、そういった表現。言い訳臭いだけでなく、なんだか嫌らしい表現だと私には思えます。論文や研究ノートなら、初めから指定されている長さはわかっているのだから、そのなかにきちんと収まるように、データやポイントを抽出して、議論を整理して、文章をまとめるのが著者の仕事というものです。新聞や雑誌記事などでは、書きたいことの数十分の一、数百分の一の紙面しかもらえませんが、その字数である問題について原稿を書くことを承諾した以上、適切に焦点を絞って、その字数のなかで筋の通った論を展開するのが執筆者の責任というものです。その長さでどうしても書ききれない大きな議論なのだとしたら、その論を発表するのにはその媒体は不適切な場なのであって、別の媒体を使うべきです。だいたい、そんな言い訳だか謝罪だかわからないことを書くくらいだったら、そのぶんの字数を実際の内容に使えばいいのであって、読者のほうはデータなり論なりを読みたいと思って頁に向かっているのに、そんな訳のわからない挨拶を読まされてはうんざりしてしまいます。それに、「お許しいただきたい」とかいう表現って、丁寧なようでいて、実際は乱暴ではないでしょうか。相手には許さないという選択を与えていないわけで、そんな一方的なことを言うくらいだったら、そんな断りなしに、さっさと自分の論題に入って堂々と言いたいことを言えばいいのに。こういった「お断り」でなくても、文章や章の初めの部分で「ここでは〜について〜の視点から論じたい」とかいった表現をよく見ますが、これにもとても違和感を感じます。「論じる」と言って内容を紹介するんだったらともかく、「論じたい」って言われたって困ってしまう。論じたいんだったらさっさと論じればいいのに。

もうひとつは、口頭でのプレゼンテーションを中心にしたイベント(研究発表とか、トークとか、ワークショップとか、なにかの説明会とか)で、あまりにも聴衆とのコミュニケーションを無視した一方通行なものが多いこと。聴衆と一度も目を合わせることなく、ひたすらノートあるいはパワーポイントの画面かなにかを見ながら、聞いているほうがどれだけ理解しているか、理解しているとすればなにを考えたり思ったりしているのか、といったことにまったく興味を示さない(ように見える)まま、時間いっぱい一人で(トークや対談の場合は出演者同士だけで)とうとうと(というか、だらだらと)話し続ける。話の途中ではもちろん、終わった後で質問やコメントを受けつけるような設定になっていないので、それでも質問をする人はよほど勇気のある人ということになる。私が今回日本に来てから二ヶ月足らずのあいだに、こうした種類のイベントにもうたくさん遭遇しました。いくらなんでもこれはひどいんじゃないかと思います。話すほうだって、せっかく準備をして話すんだったら、聞いている人にちゃんとわかってもらいたいし、どういう反応をしているか知りたいのじゃないでしょうか。いくら日本人がおおむねおとなしいと言ったって、わざわざそういうイベントに来るような人は、その話に興味がある人なのだから、質問や感想はいろいろあるでしょうし、機会が与えられれば話をしたいと思う人は多いでしょう。そうしたコミュニケーションは、ごく当たり前のちょっとした工夫(話の最中にこちらから聴衆に質問をするとか)でずいぶんと促進されるのですから、そうしたことをもうちょっと考えるべきでしょう。でも、考えてみたら、私が昔受けた大学の講義なども、ほとんどはこの、「聴衆と一度も目を合わせることなく、ひたすらノート(パワーポイントなどというものはまだ存在しない時代でした)を見ながら、聞いているほうがどれだけ理解しているか、理解しているとすればなにを考えたり思ったりしているのか、といったことにまったく興味を示さないまま、時間いっぱい一人でとうとうと話し続ける」形式だったような気がします。企業で営業をする人は、「プレゼンのしかた」のような訓練を受けるのでしょうが、そういう種類のごく基本的なことを、人前で少しでも話をする人は心がけたらいいと思います。

本日の文句はこれにて終了。