2009年9月28日月曜日

しなかった人生の選択に思いを馳せる

ニューヨーク・タイムズの、"Happy Days"というブログに10日ほど前に掲載された、Tim Kreiderという漫画家によるユーモラスでかつとても思慮深いエッセイがあります。たいへんエレガントな美文でもあり、日本の大学の英語の授業に使ったらいいんじゃないかと思うくらいです。

内容は、つまるところは「自分がしなかった人生の選択」をした同年代の友達の生活を眺めるときの複雑な気持ちについて。著者は、42歳で、結婚したことがなく、子供はもつつもりがない男性。同年代の周りの友達はほとんどが結婚して子供をもっていて、ゆえに自分の日常生活も今後の展望も、彼らとはかけ離れたものである。数十年前に比べると、男性にとっても女性にとっても、人生で選択できることの幅は格段に広がり、結婚するか、子供をもつか、といったことの他にも、職業やライフスタイルにおいて大小たくさんの選択を意識的にせよ無意識にせよするようになってきている。そして、40歳前後になると、そうした選択の結果が、日々の生活のありかた、そしてこれからの人生のありかたに、決定的な刻印を残すようになる。若いときは日々同じような暮らしをして同じようなことを考えていた友達も、数々のそうした選択によって、自分とは似ても似つかないような生活を送るようになる。そうしたときに、ふと人の生活や人生を自分のものと見比べて、羨望の念にかられたり、「あー、自分もあのときああしていれば、今頃あの人のような暮らしができていたはずなのに」と後悔したり、あるいは逆に、「あー、自分はあんな風にならなくてよかった」と安堵したりする。「隣の芝生は青い」というように、自分にはないものをもっている(ように見える)人の暮らしを羨むのは人の常であるのと同時に、周りの人たちの選択がどんな結果をもたらしたかを鑑定して、自分の選択を正当化したり、ひそかに優越感に浸ったりするのもありがちな感情である。自分が歩まなかった人生、選ばなかった道、実現しないまま終わった可能性、そうしたものを、それらを手にした友達という形で目の前に見せつけられるのは、辛いこともある。でも、同時に複数の道を追求してみてどれが一番よかったかを比べることはできないし、自分の人生を人の人生と比べてみたところでなにも達成されない。後ろを向いて道を見失うよりも、違う道を選んだ友達の姿を横から見て、自分は直接経験できないものを、より安全なところから見るのが、私たちにできる精一杯のことだ、といった要旨。

著者とほぼ同い年で、「周りの人たちと自分の日常生活がとても違う」という共通性もあって、私にはとても含蓄のある文章です。私がこれまでにしてきた人生の選択の多くは、意識的にしたものよりも、状況やなりゆきによってそうなったものが多いのですが、どのようにしてした選択にせよ、それらがもう修正不可能な結果をもたらしているものも少なくありません。そして、人生半ばになると、これまでにしてきた生き方が、これから残りの人生を規定する部分がかなり大きく、これから先の選択肢が無限にあるわけではありません。人生のそういう地点に立ったときに、自分が勝っているか負けているかといった目で周りを見回していたら、自分がどこにいるにせよ哀しいでしょうが、自分が直接には経験できないものを周りの人たちの人生を通じて垣間みることで、自分の限られた人生を少しでも豊かにできたらいいなあと思います。まあとにかく、なかなか素敵な文章ですので是非読んでみてください。