2010年4月12日月曜日

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読みました。「村上春樹」という名前だけで、今や人はいろいろなことを思う、村上春樹とはそういう存在になっているので、あまのじゃくの私などは村上春樹というだけで「別にいいや」という気になってしまうというのが正直なところです。『1Q84』なぞは、世界じゅうで驚異的な売れ行きをみせていると言われるだけで、「じゃあ私が読まなくてもいいだろう」などという気持ちになってしまいます(が、書店で一応手に取ってめくってみると、ヤナーチェクという名前が出てきたので、ちょっと読んでみようかという気をそそられたことは確か。しばらく前に、ヤナーチェクのオペラについての執筆を頼まれたことがあって、ヤナーチェクについてちょっと勉強したので)。たくさんではないけれど彼の作品の代表的なものは読み、とくに嫌いでもないけれど、とくにファンというわけでもない。ありがちな反応であるのは承知であえて言うなら、彼の描く世界、とくに中年男性の頭のなかを描いたものには、ちょっとつき合いきれないものを感じ、彼の描く女性像にも納得がいかないことが多いし、「言いたいことはもうわかった」という気になるのです。作品のなかでは、長編小説よりも短編のほうが好き(カポーティやフィッツジェラルドやカーヴァーを愛する人だけあって、短編で世界を構成するクラフトは見事だと思います)です。

というわけで、村上春樹にはとくになんの思い入れもないのですが、この本は、小説ではないということ、走ることがテーマだということに興味をもったので、読んでみました。(ちなみに私は、ハワイ大学のキャンパス周辺を村上氏が走っている姿を何度か目撃したことがあります。村上氏が奥さまと一緒にホノルルのレストランで食事をしているところも見たことがあります。だからどうした、と言われれば答に窮するのですが。)そして、この本はたいへん共感をもって読みました。私はハワイにいるときは週に3、4回はジョギングに行くようにしているのですが、村上氏のような規律と目標をもったランナーではないし、マラソンを走ってみようなどという野心も意志もない。単に、極端に運動神経が欠如している自分でも、右足と左足を交互に前に出すことならできるし、走るのには相手や道具が必要ない、というそれだけの理由で、健康のためにちょろっと走るだけです。それでも、この本で書かれていることには、納得のいくことが多い。それは、走る云々ということよりも、ものごとを身につけるというプロセスについての洞察に説得力があるからだと思います。そして、走るということを通じて、村上氏の作家としての職業観、人生観が誠実に語られていて、素直に面白い。私は、職業人としても人間としても、村上氏とはまるで違うタイプですが、人生における優先順位の設定のしかたとか、才能や集中力や持続力についての考えかたとかについては、たいへん共感しました。
ただ僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。僕の人生にとってもっとも重要な人間関係とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。僕が生活の基盤を安定させ、執筆に集中できる環境を作り、少しでも質の高い作品を生み出していくことを、多くの読者はきっと歓迎してくれるに違いない。それこそが小説家としての僕にとっての責務であり、最優先事項ではないか。そういう考え方は今でも変わっていない。読者の顔は直接見えないし、それはある意味ではコンセプチュアルな人間関係である。しかし僕は一貫して、そのような目には見えない「観念的」な関係を、自分にとってもっとも意味のあるものと定めて人生を送ってきた。(58ー59)
私自身は、文章が公になるようになって不特定多数(不特定少数というべきか)の読者とのコンセプチュアルな関係というものをわずかながらにも築けるようになり、それが自分にとって大きな実りになってもいますが、日々の生活のなかでは特定の誰かとの具体的な交遊やねちねちした関係にたいへん重きを置く人間なので、この毅然として孤高な生き方は、真似はできないししようとも思いませんが、その姿勢を尊敬はします。
僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについて多くのことを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったとき、思い立って超距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか?そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ。(113−114)
これに関しては、私自身は、学者として研究をすること、あるいは物書きとして執筆をすることについて多くのことを、ピアノを弾くことから学んできた(また逆も真なり、かな)、と言えるかもしれません。私は今はピアノを村上氏の走りのように真剣にやっているわけではないので、到底比較にはなりませんが、ものごとを身につけるプロセス、という意味では共通項がたくさんあると思います。意識的に考えることと実際にやってみること、その両方をひたすら繰り返すことでしか、身につけられないことは沢山あって、またそうやって身につけたことは、他のいろんなことに応用できるものでもあるでしょう。『ピアノを弾くことについて語るときに私の語ること』という本が書けるくらい、私もまた真剣にピアノに取り組もうと、思ったりします。