2011年2月10日木曜日

文楽は面白い

一昨日は、友達に誘われて国立劇場文楽を観てきました。私は歌舞伎や能は観たことがあったけれど、文楽を観たのは生まれて初めて。その友達がたいへん面白いというし、そして、私は今ちょうど日本の文化行政について研究しているので、国立劇場で伝統芸能を観てみるのも大事だろうと思い、ものは試しにと観てみたのですが、想像をはるかに超えた面白さで、また観なければ、という気持ちになりました。今回観たのは、義経千本桜のうち「渡海屋・大物浦の段」と「道行初音旅」。(といっても、プログラムで解説を読むまでは私にはなんのことだかさっぱりわかりませんでしたが。)始まるなり、驚くことばかりで、休憩前の二時間をほとんど口を開けた状態で見入ってしまいました。まず、文楽の人形はもっと小さいものだと勝手に想像していたのですが、意外に大きい。大の大人が三人で動かすのだから、考えてみれば当たり前かもしれません。そして、顔は場合によって眉毛や目の玉がほんのわずかに動くだけにもかかわらず、身体や着物の動きだけで信じられないくらい表情が変化する。ちょっと首をかしげて座っているだけでも、まるで役者さんが演じているかのようなリアリティがあるし、長刀をふるう場面なんかはもう、目も口も大きく開けて没頭してしまいます。それぞれの人形に、顔が出ているメイン(「首」と書いて「かしら」というらしい)そして黒装束の他のふたりの人形遣いさんがついているわけですが、不思議なくらい、舞台上でこの人たちの存在が気にならない。いや、顔が出ている人形遣いさんは、人形となんだか妙に顔が似ている感じがするのは、やはり人形の顔や身体を動かしているうちに感情移入して一体化してくるからなのだろうか。また、語りの大夫さんも圧巻。ひとりで老若男女すべての役そしてナレーションを次々に声で演じなければいけないわけで、それだけでもすごいですが、三味線と語りとのアンサンブル(?)もなんともすごい。いやいや、もし今回観ていなかったら、文楽を観ないまま一生を終えた可能性もあるので、この体験で感動をおぼえて興味をもてたのは大変幸運なことでした。

それにしても、文楽のような伝統芸能は、誰もがしぜんと興味をもつようには現代の日本では位置づけられていないし(私自身、友達に言われるまでまるで興味がありませんでした)、大勢の若い人が競ってその道を志すわけではないでしょうし、志した人にとってはとても長く大変な修業があるのでしょうし、観客は減りこそすれ増えてはいないのでしょうから、こうした日本の素晴らしい芸能を継承して育成していくためには、普通の市場論理にまかせていてはまず無理でしょう。それは、伝統芸能に限らず、効率化と相容れない舞台芸術全般に言えることでしょうが、日本ならではの芸能を、どのようにして守り育て、いい意味で刷新していくのか、真剣に考えなければいけませんねえ。私はここ数週間、文化庁日本芸術文化振興会のいろいろな検討会や研究会の傍聴に通っているので、なおのこと深く考えさせられます。