2011年2月12日土曜日

「フェースブック」ではなく「ソーシャル・ネットワーク」

ソーシャル・ネットワーク』を観ました。1000円の日に劇場で観ようと思っていたのですが、1000円の日に限って予定が入り続けたので、必ずしも大画面で観る必要はない映画だろうと思って(それはたしかにその通りだと思います)、iTunesでダウンロードして観ました。(iTunesアカウントが日本とアメリカで違うということを私は今回初めて知ったのですが、アメリカのアカウントではこの映画はすでにダウンロードできます。)

このブログで何度も書いているように、私は半ば中毒気味なフェースブック使用者なので、フェースブックの誕生そして創始者マーク・ザッカーバーグをめぐる物語だというこの映画に興味があったのですが、想像していたのよりも格段に面白く、24時間レンタルしているうちに2回も観てしまいました。この作品を、フェースブックについての映画だと思って観ることももちろん可能で、フェースブックを使っている人にとってはそれだけでもじゅうぶん面白い。でも、ソーシャル・ネットワーキング・サイトとしてのフェースブックのありかた、つまり、フェースブックが、人々の社交や人間関係にどんなインパクトを与えているのか、といったことについては、意外なくらい洞察は少ないとも言えます。しかし、私がみるに、この映画のポイントは、そこにはない。映画のタイトルに「フェースブック」という単語が使われておらず、「ソーシャル・ネットワーク」(原題には定冠詞がついてThe Social Networkであることも重要。もともとフェースブックにも定冠詞がついていたのが、ある時点でただの「フェースブック」になったことにも映画は言及しています)となっていることには、なかなか深い意味があるのだと思います。

つまり、この映画は、現代アメリカ社会において、「ソーシャル・ネットワーク」というものがどのように形成され、どのように機能するか、その光と影を明らかにしているのです。今ではフェースブックは、誰もが参加でき、基本的には実名でプロフィールを作り、公開する情報を自分でコントロールでき、自分の「友達」を選べると同時に、世界のいたるところで人とつながるごとができる、そして今日のエジプトでみられているように、政治や社会運動の重要なツールとして世界をも動かす力を持っている、民主的なネットワーキング・サイトだというイメージが広まっていますが、この映画を観ると、フェースブックがハーヴァード大学というエリート環境で、人気者グループから外れたいわゆるコンピューターオタクである、20歳にもならない男子学生たちの手によって生まれたということの意味がよくわかります。

才能さえあればなにものでもなれるという建前のアメリカ社会のなかでも、才能ある若者が集まったエリート機関であるハーヴァード大学。そこでは、たしかに20歳にもならない学生たちがとてつもない発明をしたりとてつもない財をなしたりしている。しかしそれと同時に、そこには何百年もの歴史を背景にした厳然たる階級制ともいえるものが存在している。厳しいセレクション(そのセレクション過程には、ハーヴァードの知的伝統に基づいたものと、若者ならではの実に馬鹿馬鹿しいものがないまぜになっている)を経て選ばれたものしか会員になれない排他的な「クラブ」では、名門の家系の子弟が美しい女性たちを集めて華麗なパーティをしたり、OBたちと人脈を作ったりして、アメリカの権力エリートへの道を歩み始める。そうした社交ネットワークの内側にいる人間たちは、エリート独特の高潔さも持っている("we are the gentlemen of Harvard"などというセリフを真顔でいう登場人物もいる)と同時に、外側の人間に対しての傲慢な「上から目線」もしみ込んでいる。どんなに才能があっても、そうした伝統や文化に入れてもらえない、マーク・ザッカーバーグのような人間は、羨望やコンプレックスと悔しさや「見返してやる」という怒りに燃え、それをモティヴェーションの一部にする。(自分をふった彼女に対する怒りも、若者らしい形で表現し、インターネット文化のなかではそれはさらなる深い傷を生む、というのも背景ストーリーの一部。)登場人物のひとりが、"a world where social structure is everything"と形容するそうした文化において、排他的な伝統にくそくらえ挑戦状をつきつけ、自分たちで「ソーシャル・ネットワーク」を作ってしまう、それがフェースブックなのです。しかし、そういうモティヴェーションから生まれたフェースブックは、自らが挑戦している「ソーシャル・ネットワーク」と同様の嫌らしさも持ち合わせている。つまり、当初はフェースブックはハーヴァードの学生だけが加入できるものだった。そして、人は加入しても「知っている人」に「友達」として「招待」されたり「承認」してもらったりしなければ「ネットワーク」には入れない(この点は今でも同じ)。公開性や民主性という点ではすでに存在していたMySpaceやFriendsterはもっていたけれども、まさにその「排他性」にこそ、フェースブックの当初の意味があった、というわけです。もちろん、脚本にはフィクション化された部分も多いらしいですから、すべてを事実として鵜吞みにすることはありませんが、このポイント自体はなかなか興味深い。

そして、映画の後半、ジャスティン・ティンバーレイク演じる、ナップスターの創始者ショーン・パーカーが登場してからの展開も、たいへん面白いです。

ザッカーバーグが俎にのぼる二件の訴訟を扱った一種のサスペンスもののような形式を通して、「オリジナルなアイデア」や「知的所有権」とはなにか、といったことについても考えさせられる(そしてこの点については、映画はどちらの側にも完全には立っておらず、あいまいにしているところがまた面白い)し、財や名声というものが、若さと絡み合ったときに、どういう展開になるか、についてもなかなか鋭い描き方をしていると思いました。ハーヴァードはアメリカの大学のなかでも極めて特殊なところで、たとえばハワイ大学とはあらゆる意味で似ても似つかない環境ですが、それでも、アメリカの大学の文化(当初のフェースブックを「大学生活のソーシャルな経験をまるごとオンライン化したもの」と呼ぶセリフがあります)を覗き見るという点では日本の聴衆にも興味深いのではないかと思います(当時のハーヴァード総長、ローレンス・サマーズが出てくる場面なんかなは結構笑えます)し、ザッカーバーグを、決して好きにはなれないけれども、完全に嫌いになることもできない、という人物像として見事に演じている、ジェッシー・アイゼンバーグの演技が見事。いろんなことを考えさせられる映画ですので、フェースブックを使っている人も、そうでない人も、観る価値はじゅうぶんあります。