2010年6月5日土曜日

『セックス・アンド・ザ・シティ2』はこれまでの『セックス・アンド・ザ・シティ』に対する冒涜である

恥ずかしげもなく、日本公開初日に、『セックス・アンド・ザ・シティ2』(以下SATC2)を観に劇場に出かけました。初日だから混雑するかしらんと、わざわざ友達と事前にネットで予約までして、さらには、この映画にかんしては記事を書くことになるかもしれないからと、画面の光を使ってメモをとれるように、前から4列目中央に張り切って陣取ったのですが、さすがに金曜午後の映画館はかなりがらがらで拍子抜けでした。

この映画は、アメリカでは日本より1週間早く公開されました。いろいろなところでレビューが載っていますが、すべてけっちょんけっちょんな酷評で、その評者たちの怒り心頭の様子のほうが映画そのものよりも面白そうなくらいだったので、私はあまり期待はしていませんでした。それでも、もとのSATCのテレビ番組のほうはかなりはまった(私が観たのは、じっさいのテレビ放送が終わってから、アメリカのケーブルチャンネルでしきりに再放送されるようになってからですが)し、2年前の映画版は、なんと2回も劇場に観に行って2回とも隣の友達が呆れるほどおいおいと泣いたくらいなので、今回の映画は多少出来が悪くても、お参りのような気分で行こうと思ったわけです。私は、アメリカでいわゆるchick flickとよばれる、女性向けの恋愛コメディーやドラマについては、かなりのくだらなさを許容できる能力をもっているのであります。

しかし、結論から言うと、SATC2は、いくらなんでもひどすぎる。これは、もとのSATCシリーズ、そして2年前のSATCの映画に対する冒涜ともいえるくらいひどい映画である!これまでのSATCを観てきた人たちには、「その後いったいなにがどうなるのか」という思いがあるでしょうから、コワいもの見たさで観に行くのも悪くはないかも知れませんが、これまでのシリーズを知らず、それぞれの登場人物のキャラクターやこれまでの遍歴を知らない人にとっては、単独で楽しめるだけの物語性や面白さはないので、1800円をもっといいこと(それこそ、女友達とブランチに行くとか)に使ったほうがいいです。

そんなくだらない映画について私がこれほどまでにむきになってそのくだらなさを説くのは、これまでのSATCの魅力を今回の映画がことごとく裏切っていて、主人公のキャリーと同い年である私なぞは、妙に感情移入して、「これは、これまでのSATCだけでなく、40代の女性をばかにした映画である!」などと思ってしまうからです。

アメリカの映画やテレビにももちろん非常に浅薄でくだらないものも掃いて捨てるほどありますが、ごく一般的に言えば、日本のテレビなどと比べると、アメリカのメディアでは、描かれる女性像の幅がずーっと広く、とくに最近では中高年の女性にも深みと魅力のある役がいろいろ与えられるようになっています。それに対して、何度かこのブログでも書いているように、日本のメディアでは、「可愛い」ことが女性の最重要な要素とされたような役作りが圧倒的に多く、その浅薄さに私は絶望すら覚えます。そういった意味で、SATCの4人の女性登場人物は、もちろん、全員白人で、じっさいに仕事をしているシーンはほとんどないにもかかわらずどこから湧いてくるのかわからないけれどもなぜかニューヨークの素敵なアパートに住めるだけのお金があり、靴やバッグやドレスに散財しながら、しょっちゅう4人で集まってブランチをしている、という、きわめて現実ばなれした設定ではありながら、それぞれ違ったタイプの魅力をもち、それぞれ違った生き方を選ぶという点で、なかなか面白味があるわけです。そしてまた、仕事での自己達成への野心と身体がとろけるような恋愛の両方を求めることについてなんのためらいもなく、また、セックスへの欲求も当たり前のこととして、ときには大きくつまづきながらも、貪欲に自分の求めるものを探して明るく生きていく登場人物たちの姿に、私の世代の女性たちは共感するのだと思います。そして、そのなかで一番大事な鍵となっているのが、女性同士の友情。ときには喧嘩もし、ときには傷つけ合うこともあるけれども、肝心なときは助けの手をさしのべ、喜怒哀楽をともにする女友達との絆が、このシリーズの第5の主要登場人物であるとも言えるわけです。またさらに、2年前の映画版では、40代を迎える登場人物たちが、その年代だからこそ直面する女性の現実を、このシリーズ特有の率直さとアイロニーとユーモアをもって、「ファンタジーならではのリアリティ」をもって描いていたことに、私はとても好感をもったわけです。(この映画について書いた2年前の投稿を、今読み返してみましたが、「なかなかよく書けた文章じゃないか」と我ながら感心しました。(笑)よかったら読んでください。)

なのに、なのに!いろいろなレビューでも指摘されているように、たしかにSATC2は、中東(物語のかなりの部分はアブダビで展開されます)の文化を、目も当てられないほどひどい描き方をしています。現にアメリカが中東で戦争をしているときに、これだけの予算を使ったハリウッド映画で今どきよくもまあこんな脚本が通用するなと呆れるほど、その扱いはひどい。4人の女性たちとアブダビの女性たちとのやりとりも、イスラム圏のフェミニストたちがデモを起こしたっておかしくないと思うくらい、くだらないものである。(あまりにも腹が立つので、途中から文章がですます調からである調に変わってしまうくらいである。)しかし、それは、あまりにもくだらなくて、真剣に論じるにも値しないくらいようなものである。

そんなことより、私が冒涜だというのは、この映画が、この年代の女性が直面する現実を、愛情とユーモアをもって、かつ真剣に正面から取り組もうとするSATCの本来の姿勢が少しも感じられない、ということです!(なぜかここで「です」に戻る。)結婚生活2年を経て、相手への愛情が減るわけではなくても、日常生活のマンネリ化や刺激の減少は避けられないというキャリーの現実。望んで家庭の主婦の道を選びながらも、2人の子供の子育てのストレスに疲れ果て、また、若いナニーを性的脅威として見てしまうシャーロットの現実。弁護士としての仕事と家庭生活を両立させるべく馬車馬のように動き回りながら、職場では男性に抜かれ、子供は自分から離れていって、すべてが指と指のあいだからこぼれ落ちてしまうような気持ちになるミランダの現実。そして、独身を通し、50を迎えてもなんの恥じらいもなく性を謳歌するサマンサを容赦なく襲う、更年期障害という身体的現実。物語がアブダビに移るまでは、そういった現実を、それなりのリアリティをもって描いているので、いい映画にするポテンシャルはあったにもかかわらず、なにを血迷ってか脚本家が舞台をアブダビに移してしまったために、話はまったくのドタバタ茶劇以外のなにものでもなくなってしまうのであります。

この映画において、4人の女性がそれぞれの抱える問題の「解決」への道筋には、なんの格闘も深みもない。論理も説得力もまるでない。なにしろ、キャリーの一時の気の迷いは、夫のまったくもって不可思議な理解と寛容(妻が他の男とキスをして、その妻にダイアの指輪をプレゼントする夫がどこにいるのじゃ?)によって解決し、夫に告白することによって自分の罪悪感をはらすといういう以外に、キャリー自身が自分の気の迷いについて真剣に悩み苦しんだ様子は見られない。子育てに疲れたシャーロットの解決策は、ナニーに子供をまかせてときには友達がもっているマンションでひとりの贅沢な時間を過ごすという、現実に子育てでてんてこまいしている庶民の女性が見たら画面にトマトでも投げつけたくなるのではないかと思うような答。男中心の職場に腹を立て仕事を辞めてしまう(現実的なことを言えば、大手弁護士事務所でも次々に弁護士を解雇しているような状況のなか、この選択は無謀としか言いようがない)ミランダは、やはり子育てだけでは満足できないことに気づき、どうやって見つけたのだか知らないが、自分のやりがいと周囲の評価がともに手に入るすてきな仕事を見つける。そしてサマンサは、女性そして性を抑圧する中東から自由の国アメリカに戻って、思う存分セックスをする。これが、これまでのSATC、そしてこの年代の女性に対する冒涜でなくてなんなのだ〜!!!ユーモアたっぷりの面白可笑しいファンタジーでありながら、中年女性の現実を率直にかつ深みをもって描くことは、可能なはずだ〜!!!

書いているうちに、ますます怒りが増大してきました。