と思っていたところに、先日のニューヨーク・タイムズ日曜版の雑誌に、「精神病のアメリカ化」というタイトルの記事が載りました。これはとても興味深いです。いわゆる「精神病」と考えられる症状は、地域や文化によってとてもさまざまな種類があって、それらの多くは時代の特徴や社会通念と関連していると思われる。(たとえば、東南アジアでは、人を殺さんばかりの怒りにとらわれた後で記憶喪失になる男性や、男性器が身体の内側に埋まってしまうのではないかという恐怖にとらわれる男性が多い。中東では、とりつかれたようになって大声で笑ったり叫んだり歌ったりする人が多い、など。)ところが、最近では、世界各地で、数種類の特定の精神病—とくに、鬱、PTSD、拒食症—がまるで疫病のようなスピードで広がっている。それと同時に、アメリカ式の精神医学による診断や治療の方法も世界に広まり、それぞれの社会で伝統的にとられてきた対処方法に替わるものとなってきた、ということです。「病気」と「医学的理解」はニワトリと卵のようなもので、どちらが先に来るものとは言い切れない部分が多い。鬱のような症状があった人は、以前からもたくさんいたでしょうが、鬱という概念が社会で一般化して、医学用語として正当性を帯びることで、専門家もメディアもそして一般人も、その言葉でさまざまなことを理解するようになる。こうして「鬱」の人が増える、というわけです。
もちろん、ある症状を説明する言葉や概念が一般化するということは、悪いことではないですし、「言葉が一般化した」ということは、必ずしも症状そのものが言葉で作られただけの「気のせい」だというわけではありません。名前がつくことによって、対処のしかたもわかってくるし、本人にとっても力になることも多いでしょう。でも、精神病についての診断や治療はとくに、「病」とはどういうもので、どういう「治療」をするのが適切かという、きわめて特定の文化的理解のなかで形成されてきた部分が多く、アメリカ的な理解や治療方法を異文化に移植しても、問題は解決されるどころか悪化する可能性がある、ということです。なるほど。日本で鬱の人が増えてきたのは日本がアメリカ化してきたことのしるし—なのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ、自他共に鬱とよぶ人が増えているからには、その人たちが暮らす文化や社会のなかでそれに対応していく方法がきちんと生み出されていかなくてはいけません。