アメリカでも、大学教授というカテゴリーにつきもののいろんなイメージがあり、実際に当たっているものもあればそうでないものもありますが、なかでも一番流布しているイメージ—そして、現実とかなりの確率で合致しているイメージ—は、政治思想において「リベラル」だというものです。もちろん、一口に大学といったっていろいろありますから、アイビーリーグと州立大学、リベラル・アーツ・カレッジとフットボールなどの大学スポーツがさかんな大学、特定の教会や宗派が母体となっている大学などでは、それぞれ文化がまるで違うのですが、それでも、全体としては、「大学教授というのはリベラルだ」というイメージは、人びとの意識に浸透していますし、実際に、「保守」を自称する人はアメリカの大学、とくに人文・社会系ではマイノリティです。それがなぜなのか、ということを分析した社会学の研究が、ニューヨーク・タイムズで紹介されています。
それによると、大学教授にリベラルが多いのは、リベラルでない人への直接的な差別があるから(リベラルでない人は採用されない)だという説を唱える人もいるが、それは皆無とは言えないまでもあまり正当性はない。むしろ、大学教授という職業のイメージがより大きな要因だ、ということです。看護士といえば女性というイメージ(歴史的にそれが事実であったからそういうイメージが定着したわけですが)があるために多くの男性は看護士という職業を選ぶのに抵抗があるのと同じように、大学教授といえばリベラルというイメージがある。だから、自称リベラルな若者は、大学教授という職業を選択肢のひとつとして考えるようになり、保守派の人たちは、それを遠ざけるようになる。
もちろん、大学教授がリベラルだというのは、単なる表面的なイメージだけではなく、実際の仕事の内容や性質とも結びついています。分野によってもかなりの差はあるものの、たとえば社会学などでは、社会階層や人種や性などを軸にした社会的不均衡の構造を分析するといったことが分野そのものの中心的な活動ですし、また、私自身の専門であるアメリカ研究という分野は、それまでの伝統的な文学史や歴史学では扱われてこなかった題材やトピック(マイノリティや女性など)に焦点をあてることで新しい形のアメリカ文化史を構築する、といったことが分野の起源にあるので、しぜんとリベラルな政治意識をもった人たちが集まってくるわけです。また、学者という仕事の性質—たとえば、長年にわたる下積み期間が必要とされる、宗教的にリベラルまたは無宗教の立場で議論をする、社会的に主流でないアイデアにもオープンである、教育程度に見合う収入が手に入らない(トホホ)—も、リベラルの人たちのほうがすでに持っている、または積極的に受け入れる確率が高い、というわけです。もちろん、「リベラル」とはなにか、「保守」とはなにか、というのは、日本とアメリカでずいぶん違う点もあるので、そのあたりはちょっとややこしいですが。
ちなみに、この調査によると、「リベラル」が多い職業は、大学教授、作家・ジャーナリスト、芸術家、社会科学者(「大学教授以外」ということなので、シンクタンクや公的機関で研究する人のことでしょう)、ソーシャルワーカー、バーテンダー。「保守」が多い職業は、自然科学者(これも「大学教授以外」なので、企業などの研究所で仕事をする人でしょう)、医師・歯医者、宗教職、警察官、ビル管理業者、graders and sorters(これはなんのことだかよくわかりません。試験の採点者のことかな?)など。なるほどねえ。