今日の9人のなかで、私にとって群を抜いていたスターは、中国出身のFei-Fei Dongでした。顔やお辞儀のしかたなどは、可愛らしく無垢で謙虚な雰囲気が漂っているのですが、いったんピアノの前に座ると、音楽の霊がのりうつったような迫力で、クレメンティでもシューマンでもショパンでも、それぞれの曲想を全身全霊で体現している。なにしろ、自分独自の声をとても強くもっている。このコンクールに出るような人は誰でも驚くほど大きな音量は出せますが、より本質的な意味での「強い声」というのはこういう音を指すんだなあと感じながら聴きました。そして、最後に演奏したリーバーマンのガーゴイルがすごかった。「すごかった」という意外に形容のしかたが思いつかないところが物書きとしては情けないのですが、その迫力といい、彩りといい、とにかくすごかった。演奏が終わってから、私が友達と夕食を食べた同じ店で、彼女がホストファミリーと一緒に食事をしているのに気づいたので、後から「素晴らしい演奏だった」と声をかけに行ったのですが、そのときの様子も、実に謙虚で地に足のついた感じで、きわめて好印象をもちました。
現在ジュリアード在籍中のSara Daneshpourの演奏も、繊細で叙情的な感性豊かでとてもよかったのですが、こうした舞台では、他の出演者と比べるといまひとつパワーに欠ける印象。もちろん、音楽というのは、いわゆる筋力的なパワーの他にもっと大事なことがたくさんあるので、詩的な音楽性を評価するなら彼女のような人が上位に入るべきですが、はたしてこういうコンクールで審査員が彼女をどう評価するかは興味のあるところです。
その他は、私にとってはとくに誰が素晴らしいということもなく、みんなたいへんご立派な演奏。でも、正直言って、3日目となると、やたらとたくさん音符の詰まった、オクターブや大きな和音が飛び回るリストやらプロコフィエフやらラフマニノフやらの曲は、もうお腹いっぱいです、と言いたくなってきます。そうしたなかで、シューベルトやらモーツアルトを気品と威厳をもって演奏してくれると、実にほっとした気分になります(私はシューベルトもモーツアルトも、聴くのも弾くのもあまり得意ではないのですが)。
拙著でも書いたように、このコンクールをホールで見にくる人たちのあいだには、なんとも特別なつながりが生まれるのですが、今回も3日目にしてすでにいろいろな人たちと面白い出会いがあります。今日の午後、私の隣に座ったアジア人の男性は、北京の中央音楽学院でチェロを学んだのち、今はフォートワース周辺でIT関係の仕事をしているという人。話しているうちに、実は彼はハワイ大学で民族音楽学の修士をとっており、私と共通の知り合いもたくさんいるということが判明。まさかフォートワースのクライバーン・コンクールの会場で、ハワイ大学の卒業生と隣の席に座るとは思いませんでした。他にも、大学でピアノを勉強したけれど演奏には生き甲斐を感じないと気づいて方向転換し、今は小学校の教師をしているという、白人アメリカ人の父親と韓国人の母親をもつ男性は、デトロイトからこのコンクールを見学するためにフォートワースに滞在中で、数週間後には、日本の教育制度について学ぶために日本に研修旅行に出かけるらしいです。また、昨日隣に座った女性は、フォートワース近くの大学の工学部の教授で、私と同様アマチュアのピアニスト。また、このエリアでピアノを教えているという人たちも聴衆のなかにはたくさんいます。でも、休憩時間の周りの人たちの会話を聞いている限りでの印象では、聴衆の過半数は、とくに音楽について専門的な知識をもっていない、まったくの素人。そういう素人が、こうしたイベントにせっせと足を運び、一生懸命耳を傾け、気に入った演奏には立って「ブラボー!」と叫びながら拍手をし、気に入らなかった演奏については自分なりにあれやこれやと文句をつける。自分の意見はなんの権威も影響力ももっていないとじゅうぶん承知の上で、あれこれうんちくを傾けることを楽しんでいる。その様子が、見ていて面白いのです。こうした一般の聴衆の反応は、審査員の評価とはまったく無関係ですが、クライバーン・コンクールがここまで立派な世界的イベントに発展してきたのは、こうした一般の人たちが、音楽に素直な興味をもち、このコンクールを街の誇りとして、世界から集まってくるトップレベルの若い芸術家たちの演奏に注目する、そうした習慣を育むことに、クライバーン財団が成功してきたからだと改めて感じます。
明日さらに3人の演奏が終わってからは、予選の第2段階、つまりもう1回のソロリサイタルが始まります。頭のなかには「ペトルシュカ」のメロディーが流れていますが、頑張って眠りにつくことにします。