2024年3月31日日曜日

東京大学グローバル教育センター教授に着任いたしました

 3月は『不機嫌な英語たち』プロモーションで、東京で怒涛のような1週間を過ごしました。今回もまたたくさんの出会いと刺激と発見があり、本を通じて人とつながることの喜びを新たにしました。

さて、お知らせがあります。

本日2024年4月1日から5年間の任期で、東京大学グローバル教育センター国際教育部門教授に着任いたしました。
…と言っても日本に丸ごと移住するのではなく、海外での経験を積んだ研究者を採用するため東大で新しく作られた制度によって、私はハワイ大学のポジションをキープしたまま、この先5年間にわたり半年ずつハワイ大と東大を行ったり来たりすることになります。
今日でちょうど開設1周年になるこのセンターの主な活動である、グローバル教養科目の拡充のお手伝いに加えて、大学の国際化にかかわるさまざまなプロジェクトの企画運営に携わる予定です。
東大はあれこれの問題を抱える大学だと思います(東大副学長でもあり、グローバル教育センター長でもある矢口祐人さんの『なぜ東大は男だらけなのか』を未読のかたは、是非ともお読みください)が、私は卒業生として大学に愛着はあるし、東大がやることは良かれ悪しかれ日本社会に影響を及ぼすと思います。私が在学中は想像もできなかったこのようなセンターが開設され、このようなポジションが新たに作られたこと自体が、東大の測り知れないポテンシャルを物語っていると思います。多様な人たちが新たな知を開拓する、オープンでダイナミックな大学として東大が発展していくお手伝いを少しでもできたらと思います。東大関係者に限らず、みなさまのお知恵を是非とも拝借したいので、アイデアをどしどしお寄せください。
日本で過ごす時間が長くなることで、自分の研究や執筆その他も新たに広がっていくのではないかと思います。どうぞあれこれお声がけください&お仲間に入れてください!
2024年秋学期はハワイ大学でのサバティカルにあたるので、1年目は変則的スケジュールで、まずは6月〜7月、その次は12月から来年の6月まで日本に行きますが、2年目からは基本的に1月から6月まで東大にいる予定です。 今後もどうぞよろしくお願いいたします!

2024年2月28日水曜日

『不機嫌な英語たち』トークイベントのお知らせ

 ハワイ大学は3月に1週間の春休みがあります。去年は『親愛なるレニー』のプロモーションで日本に行きましたが、今年は『不機嫌な英語たち』関連の「来日ツアー」を行います。

去年と同様、ラジオ番組の出演や収録、雑誌の取材や対談など、楽しみな予定がたくさん詰まっているのですが、公開のトークイベントがふたつあります。

3月19日(火)には丸の内の三菱ビル1FのイベントスペースHave a Nice Tokyo!(去年『親愛なるレニー』のイベントをしたのと同じ会場です)で、篠田真貴子さんとの対談、題して「海外で日常を生き抜くために必要なこと」。ビジネス界で大活躍、現在はエール株式会社取締役を務めている篠田さんとは学生時代からの友人なのですが、私と同様いわゆる「帰国子女」でもあり、私が彼女と知り合ったのはバブルの真っ最中の大学生時代に参加した国際学生会議でのこと。そんな背景もあり、越境や言語、文化、アイデンティティなどについて、話はおおいに盛り上がるはず。『親愛なるレニー』の絶大な理解者でもあり応援団長でもある篠田さんが、『不機嫌な英語たち』をどのように読み、どんなことを感じ取っているのか、聞くのを私自身とても楽しみにしています。

そして3月22日(金)には青山ブックセンターで、作家のグレゴリー・ケズナジャットさんとの対談、「言葉で語る、言葉を語る」。私はケズナジャットさんの『鴨川ランナー』と『開墾地』を読んで、脳にも肌にも心にも沁みる作品だなあと深く感じ入ったのですが、ケズナジャットさんの作品と『不機嫌な英語たち』には思いもかけぬところでいろんな共通テーマがあり、なんだか合わせ鏡のようだと勝手に思っています。日本で暮らし日本語で小説を書くアメリカ人のケズナジャットさんと、アメリカで暮らし英語と日本語の両方で研究や執筆をする私が、それぞれ日本語(と幾分かの英語)で書いた私小説について語るとどんな話になるのでしょうか。

どちらのイベントでも、本の販売やサイン会も行います。もちろん、本をすでに読んでくださっているかたからの質問や感想も大歓迎です。ご都合のつくかたは、お誘い合わせのうえ是非ご参加ください。

2023年12月10日日曜日

映画『マエストロ』劇場上映開始

 何年も前から話題になりながらも一向に公開にならなかった、ブラッドリー・クーパー監督・主演の映画『マエストロ』が、12月20日のNetflix配信に先駆けて限定的に劇場上映されています。私もホノルルで一昨日、昨日と連続で観てきました。

近々ゆっくり自宅で観られるのならわざわざお金を払って映画館に出かけなくても、と思うかたも多いでしょうが、この作品は音楽や撮影がとてもよいので、できればぜひ劇場の大きな画面で観るのがオススメです。

さてこの『マエストロ』、レナード・バーンスタインが主人公なのですが、彼の生涯と芸術を追ったいわゆる「伝記映画」ではないことは、あらかじめ警告(?)しておきたいと思います。バーンスタインのことをよく、あるいはまったく知らない人が、彼がどんな人物でどんなことを成し遂げたのかを知る、あるいは、バーンスタインのことをよく知っている音楽愛好家が、彼の音楽にどっぷり浸りながらその人間性についての理解をあらたに深める、といったことを期待してこの映画を観ると、その目的はあまり果たされないでしょう。そういう映画ではないのです。

バーンスタインの人生や仕事の全体像を捉えるという点では、はっきり言って穴だらけ。バーンスタインの気が遠くなるほど多彩な仕事の中でももっとも重要とされているもの----たとえば「ヤング・ピープルズ・コンサート」とか、何百枚ものレコーディングとか、イスラエルやソ連や日本をはじめとする海外ツアーとか、教育活動とか、核兵器廃絶運動などの社会活動とか----は、ほとんど、あるいはまったく出てこない。バーンスタインがどんな時代のどんな社会を生きて、どうやって20世紀を代表する巨匠になったのかとか、彼の音楽がなぜ世界中の人々を魅了したのかとか、彼の活動が社会においてどんな意義をもったのかとか、そういうことを理解させて考えさせてくれるような映画ではないのです。(そういうことを理解させて考えさせてくれるのは、『親愛なるレニー』ですので、未読のかたはぜひお読みください!池袋・渋谷・有楽町・吉祥寺の映画館では『親愛なるレニー』を販売してくださっているそうです。…とあからさまな宣伝を入れておく。)

ではダメ映画なのかというと、まったくそうではありません。私はとてもいい映画だと思いました。そうでなければ、もうじきNetflixで観られるとわかっているものをわざわざ二日連続で観に出かけたりはしません。

ここであんまり詳しいことを書いてしまうと、これから観る人たちの楽しみを削いでしまうかと思うので、ディテールを論じたレビューはいずれ別のところで書くことにして、この映画について語るうえで私が一番大事だと思うのは、『マエストロ』というタイトルの意味。

ここでの「マエストロ」とは、バーンスタインという世界的指揮者のことを指すというよりは、

「『マエストロ』として生きるということ」

「『マエストロ』として世界に存在するということ」

そして

「『マエストロ』として生きる人物を愛するということ」

「『マエストロ』として生きる人物と人生を共にするということ」

という意味ではないかと私は思います。

この「マエストロという人生、存在」というテーマを、バーンスタイン自身、そして妻フェリーシャ(キャリー・マリガンの演技が素晴らしい)というふたりの人物を通して捉えるものとして観れば、この映画はとても深い示唆にあふれる作品と言えると思います。

そのことを念頭において、フレーミングやカメラワーク、照明などに注目しながら観ると、単に筋を追いながら観るよりもいろんな気づきがあるのではないかと思います。

あとひとつ書いておきたいのが、後半に出てくる、6分間にわたるマーラー交響曲第2番《復活》のシーン(この指揮のためにブラッドリー・クーパーは何年間にもわたってヤニック・ネゼ=セガンのもとで特訓したらしい)が話題になっているけれど、私はこのシーンと同じくらい、あるいはそれ以上に、前半に出てくる《ファンシー・フリー》のシーンが重要だと思っています。

などなど、書き出したらキリがないのですが、ネタバレにならないようにこれで我慢(実はこの投稿、もっと長い文章を書いていたのですが、そんなに書いちゃうのもどうかな〜と思ってバッサリ削除しました)。

でもなにしろ、この映画は『親愛なるレニー』といろんな意味で補完的な物語になっているので、本を読んでから映画を観てさらにまた本を読む、または、映画を観てから本を読んでさらにまた映画を観ると、理解と感動が深まると思います!(←とふたたび宣伝 w)



2023年8月27日日曜日

『不機嫌な英語たち』予約注文スタート!

最新の著書、『不機嫌な英語たち』の情報が解禁となり、予約注文がスタートしました!

東京の小さなマンションでピアノを弾き、本を読んで過ごしていた「ふつう」(?)の女の子の真里は、小学校五年生のとき、親の転勤でカリフォルニアに連れていかれ、まるでわからない英語の世界に放り込まれる。一日一日が永遠に感じられる学校生活をサーバイブするために、必死に英語を勉強する。長い夏休みを終えて中学校に上がる頃には、「英語ができないマリ」という過去を後にして、新しい人生を生きることができるようになる。その過程でマリが経験する出会いや発見の数々。

アメリカ生活に溶け込もうと必死に英語を身につけたにもかかわらず、父親に辞令が下りると一家はあっさりとまた日本に戻ることになる。真里が「帰国子女」として編入したのは、毎日朝夕に国旗掲揚があり、「団体訓練」では「集団責任」の名目で体育の男性教師が女子中学生の頭のスリッパで叩くような学校だった。その学校にある日、絵に描いたような金髪に青い目のオランダ人、レベッカがクラスにやってくる。当たり前のように先生は彼女を真里の隣に座らせた。親切心を動員して彼女に話かける真里の目には、なにかとてつもない不条理が身に降りかかっているとでもいうような悲壮な空気がレベッカを包んでいるように見えた。午後の美術の授業中、真里だけが気づいたレベッカと先生とのやり取りとは……。

日本で大学を卒業した真里は、こんどは自分の意思で再びアメリカに渡り、ニューイングランドの大学院で学び、やがてハワイに職を得る。英語ができるようになってからの真里が出会う「アメリカ」は、カリフォルニアでの経験とはまるで違うものだった。しかしMariは、「英語ができる」だけではなく、「日本人」であり「アジア人」であり「女性」でもあった。そして「大学教授」にもなった。Mariが身につけた、あるいは否応にも課せられた属性は、Mariが見る世界や経験する人間関係をさまざまに形づくっていく……

といったわけで、自分がこれまで生きてきた道を振り返り、そして今の自分が立っている場所を見つめながら、「日本の私」と「アメリカの私」、「日本語の自分」と「英語の自分」の重なりと溝を描いた、バイリンガル私小説…と呼ぶのが相応しいかどうかは、ぜひ読んで判断してみてください。

これまでのどの著作とも違った種類の本です。ひとりでも多くのかたに読んでいただけますように!



2023年8月26日土曜日

亀井俊介先生の訃報を読んで

 この夏はまる2ヶ月日本に滞在し、おかげさまで日本エッセイスト・クラブ賞と河合隼雄物語賞を受賞した『親愛なるレニー』関連やその他の講演、イベントなどで目の回るような忙しさでした。7月後半にやっとスケジュールが少し落ち着いたところで、亀井俊介先生に会いに行こうとメールをしたら、体調不良でその翌日から入院するので、全快したらまた会いましょうというお返事をいただき、心配していたのですが、そうしたら昨日、先生の訃報が届きました。いつかはこの日が来ると覚悟していたつもりでも、いざその日がやって来てみると、脳天を金槌で殴られたような衝撃で、呆然としてしまいます。

立派なひと、多くの人に愛されたひとが亡くなると、いろんな人たちがそのひととの思い出を語ります。そうすることで、悲しさや寂しさ、故人への親愛を人と分かち合いたいという衝動は、とても自然なことだと思います。でもSNSで見かけるもののなかには、「自分は故人とこんなに親しかったんだ」とか「自分はみんなよりよく故人のことを知っている」とかいった自慢話のような印象を受けるものがあるのもたしか。

私にとって亀井先生は、研究者としても教育者としても心から尊敬する相手であり、そしてほんとうに愛情深くしっかりと私のことを理解し応援してくださる、また、亀井先生がどこかで見ているからには人間として曲がったことはできないと思うような、いわゆるmoral compassのような存在でした。だからこそ、思い出語り合戦のようなことには加わりたくないし、なにしろ亀井先生がもうこの世にいないということを、まだちゃんと受け止められていない。少し時間がたって気持ちが落ち着いてから、亀井先生のことはなにか文章にしたいと思うけれど、今はまだ書けない、書きたくない……と言いつつ、なにかしら書かずにはいられないし、やっぱり私が知っている亀井先生を、みんなと共有したい。
というわけで、以下は、2008年に亀井先生が瑞宝中綬章を叙勲なさったときのお祝いパーティ(運良くちょうど私は日本に滞在中だったのです)で私がしたスピーチです。いま読み返してみると、まさしく「私はこんなに亀井先生と親しいんだ自慢」みたいな感もおおいにあり、恥ずかしいのですが、先生のありかたが少しでも伝われば嬉しいです。 亀井先生は、ひょろっとした身体で長い指にタバコをはさんで、ふふふっと笑いながらも、コワいほど冷静にいろんなことを観察し、見抜いているひとでした。仕事においても人生全般においても、亀井先生の教え子として恥ずかしくないような生きかたをしなければ、あの世から「バカだねえ、あなたは」とお叱りの言葉が飛んできそうです。 *****
ご紹介いただきました、亀井先生の遊び相手代表、吉原真里です。
今日のこの集まりのなかでは、おそらく私は亀井先生とのおつきあいが比較的短い部類に入るのではないかと思いますが、それでも、私が駒場の学部生として亀井先生に指導を受けたときからすでに20年間、私は先生といろいろな場所で遊んできました。亀井先生が始められた教養学科アメリカ科の伝統である文学合宿の思い出ももちろんですが、そのほかにも実にいろいろなところで、私は亀井先生とご一緒してきました。
誤解を招くような発言になりますが、私は先生の調布のご自宅と府中のご自宅それぞれに、泊めていただいたことがあり、浴衣を着て一緒に川辺で花火をしたこともあります。それに加えて 私は、思い出せるだけでも、ボストンで2回、プロヴィデンスで1回、ハワイで1回、ニューヨークで1回、先生と遊んでいます。 自分の親や親友でさえ、遊びを求めて私の行くところ行くところこれだけきちんと訪ねて来てくださる人はいません。そして私の毎年一度の帰国の際には必ず1回東京のどこかで、亀井先生とデートをしています。 数年前には、パリでデートをする計画もあったのですが、残念ながらそれは都合が合わずにキャンセルになってしまったので、今後のアジェンダにまだ残っています。
思い出深いシーンはたくさんあります。プロヴィデンスの私の家に先生が泊まりにいらしたとき、私が日本で買ってきた、割と高級なお酒を食後の一杯にと思って取り出してきたら、あれよという間に先生はまるごと一本飲み干してしまわれました。 先生がクルーズでハワイにいらしたとき、私は車で埠頭にお迎えに行ったのですが、他の船客が次々降りてきても、いっこうに先生の姿が見えない。どうしたのかなあと思いながらかなり長い時間待っていると、案の定、先生は、うら若き素敵な女性を伴って船から降りてこられ、船のジャズシンガーだというその女性のことも、私は車でホテルまで送っていく役割をさずかりました。また、先生がハワイにいらっしゃる少し前に、ホノルル市の条例が変わって、一部の例外を除いてレストランやバーではタバコが吸えなくなり、その「一部の例外」のレストランを探して車で町じゅうぐるぐるドライブした挙げ句、やはり先生は食事中タバコを吸えないはめになりました。ニューヨークでは、先生との待ち合わせ場所は、Museum of Sexでした。こうしたわけで、亀井先生の遊び相手をつとめるには、かなりの柔軟性を要求されます。
こうして一緒に亀井先生といろいろなところで遊んでいるうちに、いくつかのパターンが見えてきました。まず、先生は、日本でもアメリカでも、興味をもったらどこにでもひょこひょこと歩いて行きます。亀井先生の身体つきは、端から見たら決してそう頑丈そうには見えませんが、先生はびっくりするほど歩くのが速くて、ニューヨークやボストン、そして渋谷や新宿の雑踏のなかでも、こちらが一生懸命にならなければいけないほどの勢いで、面白いものに向かって進んで行きます。その「面白いもの」とは、 かなりいかがわしげなところが多く、亀井先生は自らの体験に根づいた洞察力と愛情をもって、そうした場所に嬉しそうに出かけて行きます。そして先生は、これまた感心するほどのオープンさで、人とお話をされ、友達を作ります。私が知っている日本人研究者の誰とくらべても、亀井先生は、アメリカじゅうのいろんな街にお友達、遊び相手がいらっしゃいます。そのお友達はたいてい女性です。
つまり、亀井先生の「アメリカ」は、けっして本のなかの世界や、理屈としての社会ではなく、実際の人間が、いろんなところでケッタイなことを一生懸命にやっている、肉感と息吹に満ちた、生身の文化なのです。もちろん、そんなことは、この会にお集りの皆様はとうにご存知のことですが、遊び相手代表としては、亀井先生がたくさんのご著書のなかで描いてきた人間臭いアメリカとは、広範囲にわたる遊びの実践に根づいたものであるということを、証言したいと思います。
亀井先生の遊び相手というとても重要な役割のほかに、サイドビジネスとして、私は亀井先生に教えを受けた研究者という役割も演じておりますので、教師としての亀井先生についても少しお話したいと思います。先生の講義は、ある意味ではとてもよくない授業でした。それは、それぞれの文学作品についての先生の説明が、歴史的文化的状況から登場人物の複雑な感情からなにから、あまりにも生き生きとしていて、先生自身の作品や作者への愛情が伝わってくるので、学生は、実際に自分が読んでいない作品についても、先生の説明や解釈を聞いただけで、まるで自分で原作を読んだような気分になりがちだからです。そのいっぽうで、先生の講義を聞いて、文学好きでもなんでもない学生の多くが、ぜひ自分で読んでみようと、難解な原作をひもとく例も、私はたくさん見てきました。また、先生は、授業の最中や、飲み会の場などで、一見まるで注意を払っていないように見えながら、実は恐ろしいほど的確な観察力で、ひとりひとりの学生を見て、また覚えています。そして、卒論発表会などの場では、ときどき端から見ているものが震え上がるくらい、厳しい質問や辛辣な批判も浴びせるいっぽうで、よいものについては、端から見ているものが拍手をしたくなるようなencouragingなコメントも惜しみません。そして、個人のアドヴァイザーとしての亀井先生は、伝統的な意味での学界での成功といったこととは別の、研究者や教師としての本質的な成長を第一に考えて、教え子の道を見守ってくださいます。仕事を選ぶ上で、他の先生がたの多くが首をかしげるような選択を私がしたときも、その意図をきちんと理解して、「よくやった!」とほめてくださったのは、亀井先生でした。
研究対象に深い愛情と真剣な遊び心をもってのぞみ、人間臭いアメリカの姿を読者に伝え、学生には多くのものを要求しかつたっぷりの愛情とサポートを注ぐ、そうした亀井先生のありかたを、研究者としても物書きとしても教育者としても継承していきたいと思います。亀井先生、本日はおめでとうございます。これからも、いろんなところで、たくさん一緒に遊びましょう。

2023年2月20日月曜日

『親愛なるレニー』プロモーション 来日ツアー

 前回の投稿からたいへん長い間があいてしまいました。

『親愛なるレニー』は、おかげさまで大きな反響をいただいています。讀賣・朝日・日経・毎日新聞その他の媒体でそれぞれ大きく書評を掲載していただいたほか、毎日新聞ではインタビュー記事も載せていただきました。先日のNHK ETVの「クラシックTV」のバーンスタイン特集では、『親愛なるレニー』の主要登場人物のひとりである天野和子さんの物語も紹介されました。

そして、何人もの見も知らぬ読者のかたたちが、熱い感想をわざわざ寄せてくださってもいます。『親愛なるレニー』の読者が、まるで天野和子さんや橋本邦彦さんがバーンスタインに宛ててしたためた手紙のように、便箋に手書きで綴ったお手紙を、綺麗な切手を貼って私に感想を送ってくださるというのも、さらなる感動です。(このような形で感想を送っていただく場合は、版元のアルテスパブリッシング宛に郵送していただければ、担当編集者が私に転送してくださいます。)多くの読者のかたたちに感動していただけて、著者としてほんとうに嬉しいですし、この本を通じて、私自身に多くのあらたな出会いが生まれつつあります。バーンスタイン、天野さん、橋本さんの愛の力、そして言葉の力、音楽の力、本の力をあらためて実感しています。

そんなわけで発売からわずか4ヶ月にして本日は、第3冊の出荷がはじまりました。未読のかたはぜひ書店でお買い求めください。


この勢いに乗って、プロモーションのため3月に急遽一時帰国することになりました。ラジオ出演やメディア取材などで連日めいっぱいのスケジュールなので、企画スタッフ仲間では「吉原真里来日ツアー」と呼ばれています(笑)。東京でいくつかイベントがあります。

3月12日(日)19:00〜 本屋B&B(下北沢)吉原真里x林田直樹 「音楽家の言葉から世界を観る」 (リアル&オンライン配信)

『そこにはいつも、音楽と言葉があった』(音楽之友社)を上梓され、そして日経新聞で『親愛なるレニー』を書評してくださった音楽ジャーナリストの林田直樹さんと、お互いの本について、そして音楽と言葉、調査や執筆、聴くことと書くことなどについて語り合います。じつは私と林田さんはこのイベントが初対面。だからこそ新鮮で刺激的な会話になるのではと楽しみにしています。

3月15日(水)19:00〜 Have a Nice TOKYO! (丸の内) 吉原真里x松田亜有子 「ビジネスパーソンに贈るクラシック音楽講座 20世紀の巨匠レナード・バーンスタインから21世紀の私たちが学ぶこと」(リアルのみ)

クラシック音楽をはじめとする芸術文化の分野でさまざまな企画運営に携わってこられた、アーモンド株式会社の松田亜有子さんに聞き手をつとめていただいて、20世紀の巨匠バーンスタインの生涯と功績の意義や、現代社会におけるクラシック音楽の位置づけや役割などについて語ります。

3月16日(木)19:00〜 蔦屋書店(代官山)吉原真里x篠田真貴子 「ミクロの愛とマクロの世界を物語る」 (リアル&オンライン配信)

英語の原著刊行当初から『親愛なるレニー』についての感動を各方面で語ってくださっている、エール株式会社取締役の篠田真貴子さんに聞き手になっていただいて、本の執筆の経緯や、書くにあたって大切にしたことなどについて語ります。


各イベント、リアル参加は席が限られていますので、お早めにお申し込みください。12日と16日はオンライン配信(アーカイブ配信あり)もありますので、遠方のかたや当日の都合が悪いかたはそちらでご視聴いただけますが、せっかく日本に行くので、なるべく多くのかたと対面で交流するのを楽しみにしています。

2022年10月28日金曜日

『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』発売!

 拙著『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』が本日10月28日、ついに発売になりました!

これは、3年前に英語でオックスフォード大学出版から刊行された、Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro を私が自ら日本語の読者にむけて書き直したものです。

指揮者、作曲家、ピアニスト、教育者、メディア・パーソナリティ、社会活動家など、ジャンルを超えて類をみない活躍をした、20世紀アメリカを代表する巨匠、レナード・バーンスタイン。そのバーンスタインが何十年にもわたって深い親交をもった、知られざるふたりの日本人がいます。ふたりがバーンスタインとのあいだに育んだかけがえない愛情の物語を語りながら、それぞれの関係を可能にした歴史・政治・経済・社会的文脈とその変化をたどる本です。冷戦期アメリカの文化外交と日米関係、政治と芸術の複雑な関係、アメリカ芸術産業の変化と日本の音楽業界の発展、家族と性など、構造やイデオロギーが絡み合うなかで、遠く離れた場所からバーンスタインを芸術家として、またひとりの人間として愛し続けた「カズコ」と「クニ」。数々の手紙にしたためられた言葉から、ふたりの人間性と変化する愛情の形が感じられ、また、ふたりの目や耳や心をとおして、バーンスタインが「世界のマエストロ」となっていった過程が浮き彫りになります。

ワシントンの議会図書館でリサーチ中に思いがけずふたりの手紙を発見してから、この日本語版の刊行に至るまで、ほぼ10年。そのあいだに、想像もしなかった数々の出会いがありました。研究者として、物書きとして、そしてなにより人間として、とても多くのことを学ぶ道程でした。

日本語版では、日本の読者にわかりやすいように、原著の一部を削除したり、日本語の資料を使って加筆したり、話の順序を少し入れ替えたりしてあります。英語の原書でも、研究者だけでなく多くの一般読者に読んでもらえるような文章展開を心がけましたが、今回の日本語版では物語性にいっそう注力し、頭にも心にも響く本ができあがったと思っています。

装丁・デザインも、本のエッセンスをつかんだ、温かく素敵な仕上がりになりました。

ひとりでも多くのかたに読んでいただけたら嬉しいです。

原稿を読んで感動してくださったかたたちのご協力で、、刊行記念イベントがいくつか企画されています。

第一弾は、11月12日(土)、大阪の谷町六丁目の隆祥館書店でのリモート・リアルトークイベント(私はハワイからリモート登場です)。私は夏の帰国時に隆祥館書店を訪れ、思わずほっとするような佇まいのお店の品揃えとそこに現れる店長の二村和子さんの精神に心を打たれました。こ隆祥館書店でローンチイベントをさせていただけるのはほんとうに光栄です。(大阪圏外のかたでも、本を隆祥館書店でご注文いただけます。)

第二弾は、その翌日の11月13日(日)、以前もオンラインセミナーをさせていただいたコーラスカンパニーの主催で、「吉原真里が語る『私が書いた3冊の音楽の本』〜アメリカ研究から見たクラシック音楽とは?」というオンラインセミナー。タイトルの通り、『親愛なるレニー』の内容紹介だけでなく、私がこの本と同じくアルテスパブリッシングから刊行した『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール 市民が育む芸術イヴェント』と『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? 人種・ジェンダー・文化資本』もあわせて語ってしまおうという試みです。私の著書をすでにお読みになっているかたには、ぜひ質問やコメントをいただきたいですし、未読のかたには、私がどんな研究や執筆をしてきたのかを知っていただく絶好のチャンスです。たいへんお得な料金設定にもなっていますので、ふるってご参加ください。

第三弾は、12月11日(日)、朝日カルチャーセンター新宿教室主催で、『親愛なるレニー』の内容を紹介するオンライン講座を開催します。この頃までには本を読んでいただいているかたも多いかと思うので(と期待:))、参加者のみなさんからの感想や質問に応えながら語る講座にしたいと思っています。

愛に溢れるバーンスタインの生涯と功績、「カズコ」と「クニ」の人間性、そして20世紀のアメリカ・日本・世界。そうしたものを感じ取っていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。




2022年6月16日木曜日

『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』本日発売!

 昨日、無事入国を果たし、3年ぶりに東京の土を踏みました。今回の帰国のおもな目的は、本日正式発売になった『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』(集英社新書)を手に取り、共著者仲間と編集者と共にプロモーションに励むことにあります。

この本は、現代アメリカにおいてさまざまな不条理や不正義に果敢に声を上げてきた「女性」(カギ括弧をつける意味は、本を読んでいただければわかります)たちの行為に注目し、そこに至るまで、そしてその後の過程や状況を考察しながら、私たち自身が生きる社会や人生について振り返るものです。大坂なおみやローザ・パークスなど、日本の読者にも馴染みの深い人物から、日本ではあまり知られていない事例まで、幅広く多様な10の「声」を紹介しています。5人の女性アメリカ研究者たちが、アメリカの歴史的・政治的・社会的文脈を解説することで、単なる偉人列伝でもなく感動物語でもない、多角的で複相的な分析になっています。それと同時に、日本語読者にアメリカの事例を他人事でなく当事者として捉えてもらいたいという強い思いが本を貫いています。

また、この本の発案・執筆・編集・刊行の過程そのものが、5人の共著者そして編集者のあいだの力強いシスターフッドの物語でもあります。怒りや悲しみや笑いをたくさん分かち合いながら、みんなで対等にアイデアを出し合い、オープンに話し合いを重ね、お互いの草稿にコメントし合い、全員で文章や構成を練ることを大切にして作った本です。この「私たち」の熱い思いを、ひとりでも多くの読者と分かち合いたいと思っています。

是非とも読んで、考え、語り、行動していただけたら嬉しいです!


2021年11月7日日曜日

Symphony magazine:アメリカのオーケストラと「アジア人」音楽家 

コロナ禍におけるアジア人への暴力の急増、ブラックライヴスマター運動などの流れの中で、アメリカの芸術界も正面から人種問題に向き合う動きが盛り上がってきています。メトロポリタンオペラのシーズンオープニングを飾ったオペラ、Fire Shut Up In My Bonesは、メト史上初(!)の黒人作曲家による作品上演で大きく話題を集めました。私もMet Live in HDをホノルルの映画館で観ましたが、作品も演奏も演出も本当に素晴らしく、深く感動しました。これまで何年にもわたって人種と音楽・表象について研究してきましたが、メトの舞台で黒人の物語が黒人の声や身体で演じられ語られるのを大画面で体験してみると、今までこうした作品が上演されてこなかったことが世界にとってどれほどの損失であったかを改めて感じました。モーツァルトもプッチーニもワーグナーも大いに結構、でも多様なアーティストによる多様な物語がいつも普通に上演されれば、「オペラ」についての人々の意識は大いに違ったものになり、もっともっと多くの人たちが劇場に足を運ぶようになる筈だし、オペラという芸術的な可能性が無限に広がるに違いない。そう思いました。

そんな中で、今年6月に開催されたアメリカオーケストラ連盟のオンラインカンファレンスで企画されたパネルに登壇したのですが、それを契機に依頼された記事が、同組織の機関誌であるSymphony誌に掲載されました。クラシック音楽界、特にオーケストラにおけるアジア人音楽家の位置付けや扱いについて、主にオーケストラ業界の読者を想定して書いた文章なので、前回の投稿で紹介したショパンコンクールについての記事とはだいぶトーンが違っています。ただ、ショパンコンクールの出場者や入賞者にアジア人が多いこと、アメリカのオーケストラにアジア人が多いことは、クラシック音楽におけるアジア人への差別がないことの証明には決してならないことが伝われば幸いです。今なら無料でオンラインでアクセスできますので、ぜひお読みください。

2021年10月26日火曜日

ショパンコンクールが投げかける問い 「クラシック音楽」とは?

反田恭平さんと小林愛実さんの入賞で日本でも話題を集めたショパン・コンクール。なにしろ全部で87人も出場者がいるので、最初からずっと追っていた訳ではありませんが、第二ラウンドからは、早起きしたり夜更かししたりしながらネットで生配信をけっこう見ていました。演奏はどれも素晴らしく、審査結果も納得のいくものだったと思います。

このコンクールについて記事を書かないかと、日経新聞社の英語媒体であるNikkei Asiaに依頼を受けたので、このような文章を寄稿しました。日本ではどうしても日本人の話題ばかりに報道が集中しがちなので、今回の結果をより大きな文脈に位置づけて、「クラシック音楽とは何か?」を考えるような著述にしたつもりです。読んでいただけると幸いです。

2021年10月23日土曜日

『Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond 』刊行!

 私が企画編集してここ数年取り組んでいた、Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond が、無事にハワイ大学出版より発売となりました!

この本は、広義の「アメリカ研究」に従事する12人の日本出身の研究者たちが、どのような場や形で「アメリカ」と出会い、どのような経緯でその研究にキャリアを捧げることになったのか、自らにとって「アメリカ」とはなにか、といったことを語るパーソナルなエッセイを集めたものです。それぞれユニークで感動的な物語なのですが、それと同時に、そうしたきわめてパーソナルなものに思われる個人史が、帝国、植民・移民、戦争、占領、冷戦外交、貿易などによって色濃く刻印されていることも浮かび上がってきて、本全体でいろいろな角度から20・21世紀の日本とアメリカの出会いの力学や様相に光を当てるようになっています。

一口に「日本出身の研究者」と言っても、戦後占領下の沖縄で新聞配達少年として米軍基地を回った人、北海道のアメリカ人メノナイト宣教師のコミュニティで育った人、日本の家庭でありながら両親の教育方針で家では英語とスペイン語を話して育った人、戦争の歴史に巻き込まれて家族と離れ日本で人生を送ることになったアメリカ生まれの祖母からアメリカに移民して行った曽祖父母の話を聞いて育った人、父親が単身赴任で家を留守にしがちだったサラリーマン家庭で育った人、幼い頃に親の駐在でアメリカに渡り現地学校の教育を受けた人など、その背景や生い立ちは実にさまざまです。そしてまた、そうした人たちが出会った「アメリカ」も、時代、場所、状況などにおいて実に多様です。当たり前のことですが、「日本人アメリカ研究者」が共通の出発点からひとつの「アメリカ」に行った訳ではまったくないのです。そしてこの12人の現在も、どんな場所でどんな人たちに囲まれて暮らし、どんな学生を相手にどんな授業をし、何語でどんな著述をしてきたかなど、実にさまざまです。

私がこの本を企画するに至った背景には、もとはと言えばだいぶ前にこのブログでも書いた、松田武先生の『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』への共感と疑問がありました。奨学金や学術交流、研究助成といった形の文化外交、その根底にある各国政府の思惑が、知のありかたに影響を及ぼすということには異論がないけれども、実際にそうした中で「アメリカ」に出会い、経験し、研究する人たちの道程を、もっと近い距離から見てみることも大事なのではないか。松田先生の本を読んでからずっとそう思っていたのですが、その問いに応えるひとつの手段としてのこの企画を、研究仲間とおしゃべりをしている時にふと思いついたのでした。

個人の物語と世界の力学がどのように交差して、その中で「知」がどのように作られるのか、「日本」にとっての「アメリカ」とは何を意味しているのか、そして研究者の役割とは何か。そうした大きなテーマが、きわめて具体的で個別的なストーリーを通じて語られています。アメリカ研究や日米関係史に携わる研究者にはもちろんですが、一般の読者にも興味を持って読んでいただける内容だと思います。是非どうぞ!



2021年10月4日月曜日

国際交流基金事業をめぐって

 つい数日前に、国際交流基金が主催するオンライン展覧会で予定されていた、在日精神病患者についての映像作品の発表が、基金の判断によって中止されたというニュースを読んだばかりでした。この記事によると、中止の理由としてあげられているのは、①暴力的な発言や歴史認識を巡って非生産的な議論を招きかねない場面が含まれるものだった、②全編を通して視聴すれば必ずしも懸念はあたらないのかもしれないが言葉は独り歩きしてしまう可能性がある、③主催者としては、作品に関してどこをどう修正すべきかといった指示はできないと考えている、④展覧会の開催日時も迫っており今後改めて協議を重ねる時間もない、という4点です。

①に関しては、議論が生産的か否かは誰がどう判断するのか?議論を「招きかねない」との曖昧な推測に基づいて作品の発表を中止することで、生産的な議論をもあらかじめ封じ込めてどうするのか?国際関係にかかわる難しい問題にもさまざまな視点を提供して議論を促進することこそが国際交流の根幹ではないのか?といった問いが次々と頭に浮かびます。

②に関しては、映像であれ文章であれ、その一部が文脈から切り離されて作者や主催者の意図せぬ方法で使われてしまう可能性はいつでもある。しかし、それを懸念して表現行為そのものをやめてしまったら言論や芸術は成り立たないし、そうした活動への後援も不可能になります。とくにアジア諸国を対象にする国際交流は出来なくなるでしょう。

③については当たり前のことで、わざわざ主張するようなことではないでしょう。

④は、主催者はどうしても必要ならば開催日程を変更できるはずで、これは口実にしか思えません。

ちょうど私は、まさに同じような状況に面していたのですが、この記事を読んで、どうやら私が経験したことが突発的な出来事ではなく、国際交流基金のさまざまな事業においてこうした事態が起こっているらしいことを知ることとなりました。日本社会が危険な方向に向かっているのを感じるので、以下長文になりますが、経緯を記しておきます。

数ヶ月前に、国際交流基金のスタッフから、相談を受けました。日本の若者にアメリカ社会や文化について興味を持ってもらうための企画として、一連の短い動画を制作し、ネットで配信することを考えており、数人のアメリカ研究者に相談をしているとのことでした。私と、私が昔から親しく一緒に仕事をしている矢口祐人さんは、そのお話を伺ったときに、正直言って、ビジョンが具体性や新鮮味に欠けていると感じ、また、アメリカのいろいろな側面を解説するような動画はすでに各種メディアにたくさんある中で、似たような企画を国際交流基金がやることの意義を感じられませんでした。そこで、わざわざ国際交流基金がアメリカ研究者を動員して企画するものであれば、学問的に知見に基づいた教育性の高い、かつ、通常の講義とは趣向の違う面白い内容にするのがよいのではと意見を述べました。私と矢口さんが次から次へとあれこれとアイデアを出すのに、担当スタッフのかたたちは最初は面食らっていたようですが、常に真摯に耳を傾け真剣に検討してくださり、結局、私と矢口さんがプロデューサーのような形で全体の企画を作り、スタッフのかたたちと一緒に進めることなりました。

そこでまとまっていた企画とは、「インターセクショナリティ」という概念を軸にして、全5本の動画それぞれで、日本のアメリカ研究者が「アメリカで出会った人」ひとりについて、私または矢口さんとの対話形式でお話していただき、その後でその話と「インターセクショナリティ」のつながりを私と矢口さんが数分間で解説する、というものでした。私たちが選りすぐったスピーカーの5人は、生い立ちや教育の背景も現在の在住地や専門も多様で、トピックとして選んでくださった人物とそのかたにまつわるお話も、活き活きとしてかついろいろな考察を促す、たいへん興味深いものでした。

スタッフのかたたちは、この企画に共感し、大いなる熱意をもって実現への準備を進めてくださっていました。そして、次の段階に進むのに必要な国際交流基金内での決済手続きを待っている時に、この企画について上層部から意見が出ており、一部修正を求められているとの連絡がありました。

その上層部からの要求のまず1点目は、「アメリカについて理解を促進するための5本の動画で、ひとりもアメリカ人が出演しないのはおかしい」というもので、1人か2人でも、スピーカーまたはコメンテーターとしてアメリカ人を入れられないか、というものでした。

アメリカのことを「アメリカ人」に語ってもらうこと自体は、きわめて単純ではありますが、理解できない発想ではありません。しかし、私たちが考えた企画は、日本で育った研究者たちが出会った鉤括弧付きの「アメリカ」や「アメリカ人」の話を通じて「インターセクショナリティ」を考えるというものであって、そこに国籍がアメリカだということだけで無理矢理「アメリカ人」をスピーカーやコメンテーターとして登場させれば、企画の整合性を損なうことになります。「アメリカ人」ってなんのこと?という基本的な問いもありますし、「アメリカ人」であればアメリカのことについて語れるのか、それならアメリカ研究者である私たちの立場はなんなのか、ということにもなります。という訳で、この提案は却下するとお伝えしました。

2点目は、「国際交流基金は税金で運営されている国の機関である以上、政治性がある内容の発信は認められない。作成した動画について、そうした観点において問題点があった場合には、国際交流基金の判断で編集を行うという条件に同意できるか」というものでした。

これは1点目よりずっと大きく深刻な問題です。もちろん、特定の政党や政治家を推奨したり批判したりするような内容を扱うつもりは初めからありませんでしたが、そもそも私たちの携わっている学問は、社会におけるさまざまな力学とそこにある権力構造を問うもので、「インターセクショナリティ」とはその様相を理解するための概念です。そして、私たちの考えた企画は、具体的な人たちが、アメリカの具体的な場所や状況で出会った具体的な人物との交差を語ることで、社会や文化にあるさまざまな軸を考察するものです。そこにはもちろん「政治性」があり、それを考えるのがこの企画の本質であって、政治性を取り去っては、単なる「面白い話」にしかなりません。かくかくしかじかの内容は動画に含めることはできない、といったような具体的な提案や指示があるのであれば検討可能かもしれませんが、動画内容についての具体的な打ち合わせもしないうちから、ただ十把一絡げに「政治性のあるものは駄目」と言われるのは、発言に制約を課されるのと同じです。また、編集やカットを要求された場合には、スピーカーや私たちがそれに対して意見が述べられるのかどうか、意見が合わなかった場合にはどうなるのかと尋ねてみましたが、満足のいく答はいただけませんでした。

私たちは、国際交流基金が税金で運営されている公的機関であるからこそ、そして文化や学術を通じての国際交流を使命とする団体であるからこそ、検閲に当たるようなこのような行為は絶対にするべきではない、してはいけないと考えます。こうした問い合わせが私たちに対してなされること自体が、とても恐ろしい状況だと感じます。国際交流基金が普段の事業でかかわっている研究者や芸術家は、社会の中でもとくに、言論や思想や表現における自律性と独立性を自らの仕事の根幹に置いている人たちである筈です。そうした人たちの活動を支援し、難しい話題についてもさまざまな視点からの議論を促進することこそが国際交流だと思っています。ゆえに、ここで提示された要求については絶対に応じられないと、はっきりとお伝えしました。

担当のスタッフのかたたち及び事務局長のかたは、私たちの考えをよく理解してくださりましたし、もともと私たちと同じ意見ではあったのですが、上層部からの指示でこのようなことを私たちに伝えなければならなくなって、非常に心苦しく思っているとのことでした。ここ数年間、このような状況が組織内で強まってきているそうです。また、国際交流基金の中でも、上層部も含め他のかたたちはみなさんこの企画には賛同してくださっていて、上のような要求をしているのは一人だけとのことでした。それでも組織の性質上、その一人が了解しなければことは進められません。私たちの考えを聞いた上で、事務局長のかたが再度その一人を説得しようと協議をしてくださいましたが、結局は了解を得られなかったとの報告をいただきました。

このような経緯で、国際交流基金でのこの企画はなくなりました。

ここまで数ヶ月にわたってスタッフのかたたちが熱心に進めて下さっていた企画なので、そのみなさんがさぞかし落胆なさっているだろうと思うと心が痛みます。また、国際交流という使命に真剣な思いを抱いて基金に勤めていらっしゃるかたたちが、このような状況で仕事をしなければいけないことを、とても気の毒に思います。

それと同時に、私のように、ある程度安定した職業的地位にあり、学術や言論に携わる人間、そして日本の外にいるがために一定の距離に守られた人間こそが、こうした状況で言うべきことを言わなければいけないという思いをさらに強くしました。いったい誰が誰・何に忖度してこのような社会状況を作っているのだろうか、その構造をきちんと捉えて問い糺していかなければ、日本社会はとんでもないことになるのではないかと思っています。 国際交流基金の事業としてはボツになりましたが、企画自体はとても面白く意義深いと自画自賛中なので、別の形でぜひ実現したいと思っています。実現したらまたこちらでもお知らせいたします。

2021年8月18日水曜日

親中・嫌中では捉えられない海峡を超えた力学とネットワーク 『中国ファクターの政治社会学』

『中国ファクターの政治社会学 台湾への影響力の浸透』を読みました。(情報開示:この本の編者であり監訳者である川上桃子さんは、私の仲良しです。)

私は台湾からの優秀な学生を何人も指導していることや、台湾出身の素晴らしい仕事仲間がいることなどから、勝手にぼんやりとした親しみを感じている台湾。そして、アメリカの大学や音楽界の状況においても無視する訳にはいかない「チャイナ・ファクター」。香港から届く心痛ましいニュースに見る中国の影響。そんなこんなで、自分の専門分野とは違うのですが、とても興味を持って読みました。

私にとって一番面白いのが、第三章。アメリカ人(白人男性)研究者が中国人団体観光ツアーに同行して台湾を見るエスノグラフィー。中国の観光業者や台湾のガイドがどんな台湾をどうやって中国人の観光客たちに見せたり演じたりするか、それに対して観光客たちはどう反応するか、といった様相が、エスノグラフィーならではのthick descriptionで描かれていて、キョーレツに面白い。淡々とした語り口に笑ってしまうような箇所もありながら、ウームと考えさせられます。その前の第二章と合わせて、観光という一見政治とは無関係な活動が、どのように大きな地政学の中で実践されるか、いろいろなヒントを与えてくれます。

中国企業の台湾投資を扱った第五章も面白い。政治とは違ったロジックで動くビジネスの世界、でも当然ながら、政治から独立した形で資本が動くわけではなく、中国・台湾それぞれの政府の政治目的がさまざまな形で作用する中で、中国企業はひっそりと台湾での事業を展開し、台湾企業のほうもあれこれの思惑を検討しながら中国資本を受け入れる。なるほど。

第六章の教科書論争についての論考も、ごく基本的な次元で、そうか、教科書論争というのは台湾にもあるんだな、そしてこういう風に表出するんだなと、なるほどなるほどと思いながら読みました。
共編者であり監訳を担当した川上桃子さんがこの本について語るインタビューが、ブックラウンジアカデミアのポッドキャストで配信されたばかり。とてもわかりやすくて良いのでオススメです。(ちなみにこのブックラウンジアカデミアは、毎回とても面白くて、私は料理をしながら聴くのを楽しみにしています。すっかりファンになったので、自分もインタビュアーとして登場させてもらうことにしました。それについては追ってまたお知らせします。)

2021年8月9日月曜日

ピアノはモノである 田中智晃『ピアノの日本史』

 私は1968年生まれ。育った東京のマンションの4畳半の部屋にはヤマハのアップライトピアノがあり、3歳でレッスンを受け始めました。そのピアノは、今もその実家にカバーがかかり、物置き台となって残っています。私の世代の人たちの約五分の一が似たような経験をしているはず(1979年に国産ピアノの出荷台数はピークを迎え、2000年時点で日本におけるピアノの普及率は21%)。そして、日本の楽器産業は現在圧倒的に世界をリードしている。なぜそうなったのか?それを見事に解明してくれるのがこの本、田中智晃『ピアノの日本史 楽器産業と消費者の形成』。かなりどっしり感のある本ですが、面白くて一気に読了してしまいました。

戦前の複数の日本企業がピアノ製造法を学んで国内での生産と流通システムを作り、戦後にヤマハが高品質を保ちつつ大量生産を可能にする製造技術を開発し、日本の一般家庭にピアノを付随サービス付きで届けるとともに海外市場を開拓し、ブランドを確立して世界トップの楽器メーカーになる過程を、丁寧なデータ分析で解説。でも(少なくとも私にとって)この本で一番面白いのは、その生産の仕組みの部分ではなく、それを継続していくためにピアノ製造業者が考案してきたあれこれの市場開拓や流通システム整備の部分。ピアノとは音楽という芸術のための楽器であると同時に、近代産業の産物であり、モノであり、製品である。それも、やたらと部品が多くて生産には高度な技術が必要、安くなったとは言ってもそれなりに高価、たいていの消費者は一度買ったらそうそう買い換えない、買っても弾けるようになるためには相当の学習が必要、家のスペースを食う、騒音問題あり…など、あれこれややこしい性質を帯びたモノ。そうした性質ゆえ、いくら製造技術を改良し続けても、誰もがテレビや冷蔵庫を買うようにピアノを買うわけではないし、やがて市場は飽和状態になること、すなわち「斜陽化」を、製造業者はある時期からちゃんと見越していた。それに対応するために、あれこれの事業展開を進めてきた。その部分がたいへん面白いのであります。著者は流通史の専門家なので、特約店の仕組みはとりわけ丁寧に分析されていて、「なるほどそういうことだったのか」と腑に落ちることたくさん。私には、とくにヤマハ音楽教室の話がものすごく面白い。カワイが始めた予約販売の話(「ヤマハレディ」への言及がちょっとあるんだけど、もっと知りたい!)も面白い。電子楽器やプレイヤーピアノをめぐる試行錯誤の話も面白い。そしてまた、海外市場の話も面白い。…と、「面白い」という面白くない単語を何度も繰り返してしまうくらい、興味深いデータと分析が満載。テクニカルな情報が多いにもかかわらず、文章も明解で読みやすいです。
個人的には、国内外の労働面(工場の従業員とか、調律師の養成とか、ディーラーの研修とか)についてもっと知りたった気もします。マーケティングについてももっといろいろ分析できそう。また、実に素敵な表紙でも示されているように、一般消費者にとってピアノという楽器は特有のジェンダー化された意味づけがされているので、それが生産・流通・消費の過程でどう作用しているのか、もっと正面からの分析も欲しい(←自分でやれと言われそうなので、はい、やります)。そして、グローバル市場での「日本企業」としてのヤマハの意味付けも知りたい。最後の最後で触れられている、中古ピアノ市場についてももっと知りたい。…などなど、さらに知りたいことが次々に頭に浮かぶということ自体、脳を刺激するよい本の印。これじゃあ何が何だかわからないというくらい、付箋がいっぱいになってしまいました。オススメです! 


2021年8月8日日曜日

「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」オンラインセミナー 8/22(日)より全3回

 南カリフォルニアで2週間を過ごし、10日前にホノルルに戻ってきたのですが、デルタ株によりハワイでは(も)新規感染者数が猛烈な勢いで増えています。ロスでは満員(!)のハリウッドボウルでデュダメル指揮、ヴァイオラ・デイヴィスのナレーションによる「ピーターと狼」を聴いてきましたが、今ではもう何時間も飛行機に乗ったりたくさんの人が集まるところには行く気にならず、行ける間に行っておいてよかったです。

さて、2週間後の8/22(日)より全3回で、オンラインセミナーをします!題して「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」。読んでいただいているかたにはすぐわかるように、拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? –– 人種・ジェンダー・文化資本』をもとにした内容です。この本が日本語で刊行されたのは2013年、原著である英語版が出たのが2007年、そしてメインのフィールドワークをしたのが2003〜2004年なので、それ以来けっこうな年月が経っているのですが、興味深いことに、ここ一年間立て続けに、このテーマについての取材や講演や執筆の依頼を受けています。つい最近も「ズーカーマン事件」とも呼ぶべき出来事があり、それを受けてニューヨーク・タイムズに掲載された記事でも、名前は載りませんでしたがかなり長時間の取材を受けました。クラシック音楽界におけるアジア人の活躍がさらに広がっているだけでなく、ブラック・ライヴズ・マター運動の流れの中で文化芸術界にもさまざまな問いかけがなされるようになり、また、コロナ禍で急増しているアジア人への暴力などの状況において、「西洋のもの」とされているクラシック音楽における「アジア人」の位置づけや、音楽と人種の関係といった問題が改めてレレバンスを持ってきているのを実感しています。

本を読んでいないかたにもわかりやすいように内容を紹介しながら、本の刊行後のクラシック音楽界やアメリカ社会の展開も視野に入れ、また、自分で本を振り返っての反省や、「今この本をアップデートするならこんな風に」といった話もするつもりです。聞き手は、去年のオンラインセミナーと同じく、坂元勇仁さんが務めてくださいます。見逃し配信もありますので、リアルタイムでの参加ができないかたも、ふるってお申し込みください!質問・コメント大歓迎です!

申し込みはこちらからどうぞ。


2021年7月3日土曜日

「我々はアメリカ人ではない!」 ハウナニ=ケイ・トラスクのレガシー

長年闘病を続けていたハウナニ=ケイ・トラスクが、しとしとと静かな雨が降る今日2021年7月3日午前、息を引き取ったとの知らせがハワイ中に伝えられました。

ハワイではその名を知らない人はいないくらい影響力の大きい人物でしたが、日本では一部のハワイ通を除いては彼女のことはあまり知られていないのではないでしょうか。研究者仲間と一緒に執筆中で来年刊行予定の本の中で、彼女についての文章を書いているので、ここではごく簡単に紹介するだけにしておきます。

とにかく見ていただきたいのがこのビデオ。


これは、約20分間にわたる彼女のスピーチの最初のごく一部ですが、ここで繰り返されている "We are not American!"、そう、「我々はアメリカ人ではない!」というシンプルな一文は、ハワイとアメリカ合衆国の関係の歴史を理解する上できわめて重要なものです。

このスピーチは、1993年1月17日、ホノルルの中心部にあるイオラニ宮殿の敷地内で行われたもの。100年前の1893年1月17日にハワイ王朝が非合法に転覆されたことへの怒りを悲しみを表し、ハワイアンの主権を主張するため、4日間にわたって行われた抗議行進・集会のクライマックスでした。当時すでにハワイアン主権運動のシンボル的存在だった彼女は、斜め前に建つハワイ州議事堂をじっと見つめて「我々はアメリカ人ではない!」と繰り返し叫び続けたのです。

19世期末に独立国家としてのハワイは滅亡し、列島はアメリカの領土となりました。第二次世界大戦後、住民の多く、とくに政財界のリーダーたちが、アメリカ合衆国におけるハワイの政治的地位を強化するために立州化を求め、1959年にそれが実現してハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となりました。ゆえに、現在ハワイはアメリカ合衆国の一部であり、先住ハワイアンもアメリカ国籍を持ちます。しかし、そうして「アメリカ国民」「ハワイ州の市民」となることをハワイのすべての人々が歓迎したわけでは決してありませんでした。


1778年にジェイムズ・クック率いるイギリス船が到着して以来、ハワイには世界各地から植民者や資本、文化が流入し、また疫病や環境の変化によって先住ハワイアンの人口は激減し、社会構造や生活様式が急激に変化していきました。歴代のハワイ政権は積極的に西洋近代の技術や政治制度を採用することで列強諸国と対峙しようとしたものの、土地の私有化によってハワイアンの人々は生活の基盤を奪われ、キリスト教化・西洋化によって宗教・言語・伝統文化の多くを失い、アメリカ人資本家たちにハワイ社会の実権を握られていったのです。


そして、政治力・経済力のさらなる拡大を図った少数のアメリカ人が、1893年に米海軍の支援をバックにクーデターを起こし、抗議宣言を発したリリウオカラニ女王をイオラニ宮殿に幽閉し、ハワイ王朝を転覆させ、翌年にはハワイ共和国が誕生しました。そして、クーデターへの米軍関与は不正であったと判断したクリーヴランド大統領の反対にもかかわらず、1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合されました。米海軍はハワイを太平洋地域最大の拠点とするため巨大な軍事施設を建設し、1941年に日本軍の真珠湾攻撃により第二次世界大戦の舞台となったハワイは戒厳令下に置かれました。戦後には、プランテーション農業の衰退とともに、ハワイの産業は観光と軍事に急速に移行し、環境破壊や経済格差、土地開発に伴う住民の強制移動などが進行しました。


1960年代にアメリカ本土で公民権運動、ブラック・パワー運動、先住民運動などが盛り上がりをみせる中、ハワイでも、植民地化や抑圧と差別の歴史を問い質し、先住ハワイアンの主権回復を訴える運動が起こりました。第二次世界大戦中に米軍に接収され、戦後も米海軍の爆撃演習地として使用され続けたカホオラヴェ島に、草の根運動家たちが乗り込み、身体を張って爆撃を停止させ、島を市民の手に取り戻したProtect Kahoʻolawe ʻOhana(PKO)運動や、先住ハワイアンへの正当な土地使用権の分配を訴えたり、資本の利益を優先した土地開発に反対したり、ハワイアンの教育や雇用の正当な機会を要求する運動が、急速に盛り上がっていったのです。キリスト教宣教師たちによって使用を禁じられていたために使用者が激減していたハワイ語や、フラやチャントを初めとするハワイの伝統文化、そして伝統様式の農業や漁業を復興する運動も、ハワイ各地で広がっていきました。

そうした中で、ハウナニ=ケイと妹のミリラニ・トラスクはハワイ主権運動のリーダーとなり、1987年に発足したハワイアン主権運動団体Ka Lāhui Hawaiʻiの創設メンバーとなったのです。ハワイ内外のさまざまなグループと連携しながら1993年の抗議行進・集会を数年間かけて準備したのもこの団体。 


“We are not Americans!” という、聴衆が一瞬はっと息を呑んだ衝撃的な宣言の後で、彼女は「主権(sovereignty)とは何か」を、溢れ出る怒りを燃えるような視線に込め人差し指を立てた腕を振りながら、力強くこう論じました。----主権とは、気持ちの問題でもアロハの精神の問題でもハワイアンとしての誇りの問題でもない。そんなものは我々はすでに持っている。主権とは、自らの政府を持ち、自らの国家を持つことである。自らの政府を持つことでのみ、自らの権力を行使し、自らの土地を管理することができる。主権とは一にも二にも政治である。アメリカ合衆国は民主主義の国などではない。人種差別によって先住民の滅亡をもたらす世界最大の帝国である。ハワイ州はそのアメリカ合衆国の一機関である。行儀よく話し合いをしている場合ではない。憤り闘わなければいけない。私は憤っていることに誇りを持っている。ハワイアンであることに誇りを持っている。私は、そして私たちは、アメリカ人ではない。アメリカは私たちの敵である。闘うのだ。


ハワイで直接行動や政府機関を相手取っての活動を続けるうちに、トラスクはどんどんと雄弁になり、そのメッセージは先鋭化されていきました。ハワイ大学のキャンパス、そして新聞やテレビなどの公的メディアでの歯に衣着せぬ発言や議論を通じて、若い学生たちを初めとする多くのハワイアンやその運動を支持する人たちの尊敬を集め、一種のロールモデルとなっていきました。彼女へのバックラッシュもきわめて大きいものでしたが、それでも彼女は、ハワイ植民地化の歴史への無理解と根強い制度的差別に対し、つねに前面に歩み出て闘い続けていったのです。1970年代にはほとんどのハワイアンの人々が「主権(sovereignty)」という単語を口にすることさえ躊躇ったのに対し、1990年代には世代を超えて多くの人々が運動に参加し、ハワイ社会の支配層も無視できない勢力となりました。“We are not American.”演説のあった1993年には、ハワイ王朝の転覆そしてアメリカ合衆国への併合はハワイアンの意志に反して非合法に行われたことを認める「謝罪決議」がアメリカ連邦議会で可決され、クリントン大統領によって署名されました。大学でハワイの歴史や政治や言語を学ぶ学生も増え、いまだ不十分とはいえ、さまざまな分野でハワイアンの教員も採用されるようになっています。マウナケア山の30メートル望遠鏡(TMT)建設に抗議する活動家たちの多くは、トラスクの教えを受けた人々。彼女が身体を張って示したハワイアン主権の理論と実践は、ハワイ各地で若い世代に脈々と受け継がれているのです。


ハワイの独立と主権を奪ったアメリカ合衆国の独立を祝うような日にはもう付き合っていられない、私はアメリカ人じゃないんだから、とでも言わんばかりに、7月4日のアメリカ独立記念日の前日にこの世を去っていったトラスク。いかにも彼女らしい旅立ちだと思います。


彼女の著書の中でももっともよく知られるFrom a Native Daughter: Colonialism & Sovereignty in Hawaiʻi は、『大地にしがみつけ----ハワイ先住民女性の訴え』というタイトルで邦訳も出ています。現在、ハワイではコロナ禍がだいぶ落ち着いて、観光客もかなり戻ってきています。日本からも再びたくさんの人が訪れるようになるでしょう。ハワイに旅する日本の人たちにも、トラスクのことを知って、ハワイの歴史や社会について理解していただきたいです。 

2021年6月16日水曜日

99%のための音楽史宣言『バイエルの刊行台帳』

 

かつては週に数回も書いていたことのあるこのブログ、2020年にはなんと1回しか投稿がなく、それもオンラインセミナーの宣伝で、これではブログと呼べないトホホな状態になってしまいましたが、気を取り直して新たな投稿をしようという気持ちにさせてくれたのが、この本、小野亮祐・安田寛『バイエルの刊行台帳 世界的ベストセラーピアノ教則本が語る音楽史のリアル』。 

安田さんの『バイエルの謎』を読んだときに私は大いにコーフンして、2012年5月にこちらのブログでも紹介しました。それから10年近くが経ち、私はリアルでお会いしたこともない安田さんと、お互いのオンラインセミナーを視聴したり一緒にzoom読書会をしたりする仲になっていて、人生というのは生きてみるものです(笑)。で、この本は『バイエルの謎』の続編として、安田さんの研究仲間の小野さんと共著で書かれたもの。「面白くて、ためになる」本というのがこの手の読みものの魅力ですが、その点においてこの本は満点! 

グーテンベルクの活版印刷で知られるマインツにある老舗楽譜出版社、ショット社の廊下に、ある作曲家の肖像が飾られている。あの「バイエル」である。日本でピアノをやった人は誰でもその名を知っているとは言え、ドイツに限らず音楽史において今ではまったく無名となったバイエルの肖像が、ベートーヴェンやワーグナーの楽譜を出版したこの会社でわざわざ飾られているのはなぜか? という問いからこの物語は始まる。 

その問いを解明するのに大きな鍵となるのが、ショット社の刊行台帳。一口に「バイエル教則本」といっても、実にいろいろな版が次から次へと出版されている。刊行台帳と睨めっこしながら、いつ何がどのくらいの部数刊行されたのかという基本的な情報を、著者は丹念に追っていく。そして、バイエルの教則本が、当時の楽譜市場においてどういう位置付けにあったのか、他にはどんな教則本が出回っていて、それらと比べて「バイエル」の内容は何がどう魅力的だったのか、といったことを、出版史や文化史の文脈から辿っていく。(注・とくに付録が大事。)そしてまた、それほどたくさんの教則本を書くに至ったバイエルのキャリアの道程と意味を探るために、彼が青春時代を過ごし、音楽家としての夢と挫折を味わったライプツィヒの街の音楽文化を描く。 

その辺りまでもたいへん興味深いのですが、いよいよ謎が深まり、核心に迫っていくのが第4章。ミステリー映画であれば、不穏な音楽がバックに流れ、主人公が暗い廊下をそうっと進んで、奥にある一枚の扉を開けようとするところ。(とは言っても、私はミステリー映画をあまり観ないのでこれは無知な想像で、まったく的外れかもしれません、あしからず。)この本でそれは、暗い廊下の奥にある扉ではなく、ミュンヘン国立図書館の仰々しい大階段を上がって音楽部門に到着し、それまでに閲覧希望の資料についてあれこれやり取りを重ねていた担当司書のザビーネさんが取り出してきて見せてくれる、ある手書きの楽譜。(ここでワーグナーの和音のようなドラマチックな効果音。)ネタバレにならないよう、その具体的な内容はここでは明かしませんが、読みながら私は思わず「おおお〜!」と声を上げました。 

そしてそこからさらに謎解きは続く。56歳で亡くなったバイエルが遺した楽譜をショット社に売った妻とその子供たちはどうなったのか?「V.」とは何者?ショット社はあくどい悪徳商法で「バイエル」の名を使い回していたのか?そして、資料にある印刷譜に押されているとあるゴム印の意味は???などなどのハテナが、安田さんならではの、読者をグイグイ引き込む謎解きスタイルの筆致で綴られていて、まあとにかく面白く、謎が解けたときにはこちらも思わず大きく溜息をつく。 

といった調子でおおいに楽しめるのですが、私が一番ドキドキワクワクゾクゾクするのは、この謎解きから話を深め広げて、これまで一般的に「音楽史」と呼ばれてきたものに大きな挑戦を投げかける第5章。ここでは、音楽史からすっかり名が消えてしまったバイエルを、同じくショット社のお抱えで、こちらはまぎれもなく西洋音楽史に大きく名を残すワーグナーと並べて論じることで、19世紀ヨーロッパで音楽がどのように演奏され聴かれ学ばれていたのかを、鮮明に描いてみせてくれる。「マイスタージンガー」の楽譜の刊行の実態----マイスタージンガーのどの部分のどんな形態の楽譜を、誰が買ってどう使っていたのか----を知ると、ワーグナーという存在、オペラという芸術形態、そして音楽を「する」という行為や活動についての理解が、大きく転回するのです。「作品番号によってではなく、プレート番号によって書かれる音楽史のリアル」と著者が表現しているように、偉大な作曲家として名を残した人たちの列伝とその作品分析ではなく、そうした「偉人」を取り囲み、いや彼らを支える形で、無数の楽曲を作曲したり編曲したりしていた音楽家たちの営みに光を当てることで、これまでとはまったく違った「音楽史」が浮かび上がってくる。これはまさに、「99%のための音楽史宣言」なのであります。 

私もDearest Lennyのための調査で、バーンスタインのレコードの売り上げ明細と睨めっこしたり、バーンスタインの仕事を管理したアンバーソン社と楽譜出版社の間でやりとりされた書簡を読んだりして、驚いたことも、いやでも考えてみれば驚くことではないのかもと思ったりすることも沢山あったのですが(そのあたりはとくに第3章で書いてあります)、そういう商業市場としての音楽のリアルな状況は、バイエルの時代にすでにあったのでした。そして、さまざまな経緯を経て、ごくごく一部の作曲家が音楽史のキャノンを形成していく陰で、今では誰もその名を知らない数え切れないほどの人たちが、音楽を生み出し続け、その人たちの書いた教則本をブルジョアのお嬢さんたちがせっせとさらい、その人たちが編曲した楽曲を母娘や姉妹で連弾し、その人たちがピアノ伴奏用に編曲したオペラ曲のヴォーカルスコアを見ながら家庭のサロンコンサートで歌ったりしていた。そうしたお嬢さんたちが殿方に見染められ、やがて結婚し家庭を持ち、またそれらの教則本や連弾符やヴォーカルスコアを使って子供たちと音楽を楽しんでいた。それが19世紀ヨーロッパの音楽活動だった。「その人たち」の人生は幸せだったのか、そうでなかったのか。そんな問いは大きなお世話である。「その人たち」はまさに「音楽」をしていたのである。ドキドキしたり哀しくなったり胸が熱くなったりしながら、そんなことに思いを馳せ、知的にも情感的にもドラマチックな体験をさせてくれる一冊です。 

さて、小野さんのあとがきにちょっと書かれているけれど、私としては、小野さんと安田さんの共著のプロセスがもっと知りたかった。本文中ずっと、「僕」という一人称単数が主語になって謎解きがされていく。『ブッデンブローク家の人々』を上着のポケットに入れてフランクフルトに降り立った「僕」は、小野さんなのか、安田さんなのか、それともやはり二人の魂の複合体なのか? 資料探して三千里(?)マインツやミュンヘンに飛んで行ったのは小野さんなのか(ショット社の前で小野さんが立っている写真が後半に掲載されている)、それとも安田さんと二人で一緒に行ったのか?親子ほど歳の離れた(実際に安田さんは小野さんのお父様と同い年だそうです)、キャラもだいぶ違う(私は小野さんとは面識がないのですが、オンラインセミナーでお二人のお話を視聴した印象だと、安田さんとはだいぶキャラが違う印象)この二人が一緒に旅したのだとしたら、なんだか愉快な珍道中だったのではないかと想像でき、その様子についても知りたい。小野さんが一人で出かけて行って、発見したことを安田さんにその都度報告していたのだとしたら、そのやり取りの様子も知りたい。そしてこの本を二人で一緒にこういう文章にするまでに、どんな密な作業がなされたのかも知りたい。そうした話はいつかどこかで聞けるかな… 

とにもかくにも、是非ご一読を!


2020年8月22日土曜日

『愛するレニーへ、日本からの手紙』オンラインセミナー 9月6日(日)より全3回

 2020年の想像を絶する展開に背筋が凍る思いをしているあいだに、前回の投稿からまる一年が経ってしまいました。そしてまた、その投稿でお知らせした拙著Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro の刊行からちょうど一年が経とうとしています。

本来は夏に日本で本の内容を紹介する講演をいくつかする予定だったのですが、帰国そのものができなくなってしまったので、代わりにオンラインセミナーを開催することにしました。コーラスカンパニー主催で、日本時間で9月6日(日)をはじめとして全3回にわたって、本で扱っている内容をインタビュー形式でお話しします。聞き手を務めてくださるのは、「学び舎遊人」シリーズの坂元勇仁さん。

レナード・バーンスタインやクラシック音楽全般、また戦後の日米文化関係に興味があるかたにはもちろんですが、それ以外の一般のみなさんにも、人間の愛情の物語として、ゼッタイに面白く聞いていただけるとお約束いたします!リアルタイムで視聴いただければ、ご質問やコメントにお応えできますが、日時の都合が悪くても期間限定で録画をご覧いただける設定になっています。どうぞふるってお申し込みください。

これに先立ち、先週末は、私の友達(とその友達)向けのプライベートなトークイベントをZoomで開催しました。多様な分野の読者の感想を、と思って素敵なコメンテーターを4人もお願いしていたのですが、お盆の最中でもあり、聴衆が全然いなかったらどうしよう、と少し心配していました。でも、インフルエンサーでもあるコメンテーターの集客力もあって、予想の倍以上の参加者に熱心に聞いていただき、とてもよい質問やコメントが続いて、予定時間を大幅にオーバーして、刺激的で楽しい時間を過ごしました。オンラインセミナーでも、参加者のみなさまとの交流を楽しみにしています。


2019年8月24日土曜日

Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro 発売! 


2019年8月25日は、20世紀を象徴するアメリカ、そして世界の音楽家、レナード・バーンスタインが生きていれば101歳の誕生日です。これまで1年間にわたり、世界各地でバーンスタイン生誕100周年記念のコンサートやイベントが開催されてきました。その記念すべき年の締めくくりになんとか間に合う形で、私がこれまで6年間取り組んできたプロジェクトが本となって発売になりました!題してDearest Lenny: Letters from Japan and theMaking of the World Maestro。

6年前にワシントンの議会図書館の音楽部門にあるバーンスタイン・コレクションをリサーチに行ったとき、私はバーンスタインそのものを研究対象とするつもりはありませんでした。まったく別のプロジェクトのケーススタディのひとつとして、ケネディ・センターについての資料を集めていて、この舞台芸術施設が1971年にオープンした際のこけら落とし作品としてバーンスタインの『ミサ曲』が上演されたので、そのことについて調べていたのです。

ところがこのバーンスタイン・コレクション、一人の芸術家にまつわる資料コレクションとしては世界でも最大級と言われており、1700以上の箱にマニュスクリプトやビジネス書類など40万点以上が所蔵されている、研究者にとっては天国とも地獄とも言えるような膨大なアーカイブなのです。いったいそこに何が入っているのかを漠然と理解するだけでも一苦労。このコレクションの目録に目を通し、バーンスタインに手紙を送った、あるいはバーンスタインから手紙を受け取った人物の名前のリストをざっと見ているとき、私は聞いたことのないふたりの日本人の名前を見つけました。ひとりは、Kazuko Amanoさん。もうひとりは、Kunihiko Hashimotoさん。小澤征爾さんや五嶋みどりさんの名前ならリストされていても当然だけれども、このふたつの名前は聞いたことがない。ケネディ・センターについての研究とは無関係だろうと思いつつも、この二人がいったいどういう人物なのかに興味を引かれて、私はこれらの箱の閲覧請求をしました。そして、その箱が出てきた瞬間、私の研究はまるで方向を変えました。それらの箱との出会いは、研究者人生において一度でもあれば地に平伏して感謝するような、運命的な発見だったのです。

父親の駐在のためパリで育ちパリ音楽院でピアノの勉強をしていた天野(当時の姓は上野)和子さんは、戦争勃発のため一家で帰国します。戦時下の日本では満たすことのできなかった広い世界への好奇心や音楽への思いに駆られて、戦後、占領軍の文化政策の一環として運営されていた東京のCIE図書館(アメリカン・センターの前身)に通って英語の書物を読みあさっていた和子さんは、ある音楽雑誌に掲載されていた、レナード・バーンスタインという指揮者の短いエッセイを読み、深く感銘を受けます。バーンスタインは1943年に臨時のピッチヒッターとしてニューヨーク・フィルを指揮し衝撃的なデビューを飾っていたとはいうものの、まだキャリアとしては駆け出しの段階でした。その、初めて知る若い音楽家の文章に感銘を受けて、18歳の和子さんは、わざわざバーンスタインの誕生日を調べ、ファンレターを送ったのです。その人並み外れた行動力が実を結び、なんと一年ほど経ってから、和子さんはバーンスタインから返信を受け取ります。そこからふたりの書簡のやりとりが始まり、和子さんの最初のファンレターから14年を経た1961年にバーンスタインがニューヨーク・フィルを率いて初来日する時には、和子さんは夫と幼い子供ふたりと一緒に、バーンスタインと初の対面を果たし、その後、天野一家は家族ぐるみで熱烈なレニー・ファンとなっていきます。結婚、子供の誕生と成長、50代になってからの就職、といったさまざまな人生の段階を辿る過程で、和子さんにとって、バーンスタインへの愛情は特別な心のよりどころとなるのです。

いっぽう、橋本邦彦さんがバーンスタインに出会ったのは1979年夏。ニューヨーク・フィルの日本ツアーの最終コンサートの後に知人の紹介でバーンスタインと会った橋本さんは、それまで憧れのアーティストであったマエストロを目の前にして、一瞬にして劇的な恋に落ちます。バーンスタインの東京での最後の夜を共にし、空港で彼を見送った後で、橋本さんは最初の長い長いラブレターを書きます。そしてその後、橋本さんはまるで日記を書くかのような勢いで、バーンスタインへの情熱的で切実で真摯な思いを書き綴り、送り続けるのです。バーンスタイン・コレクションに所蔵されている橋本さんの手紙は、全部でなんと350通以上。

結婚し子供3人と幸せな家庭生活を送ったバーンスタインが同性愛者でもあったことは、多くの人が知っていたことでした。妻となるフェリシアも、結婚前からそのことをじゅうぶん承知の上で、愛情と信頼によって家庭を築こうとバーンスタインに決意を伝えた手紙が残っています。結婚生活中も、フェリシアが1978年に亡くなってからも、バーンスタインには数多くの男性の恋人がいたことも、広く知られていることです。橋本さんは、バーンスタインにとって一人きりの恋人という訳ではなく、そのことも橋本さん自身はよく理解していました。でも、橋本さんはバーンスタインにとって単に行きずりの人物だったかというとそうではなく、きわめて特別な存在であったことは、バーンスタインが二度にわたって橋本さんをヨーロッパに招待し、仕事の合間に親密で素敵な時間を過ごしていることからもわかります。

当初は保険会社に勤めるサラリーマンだった橋本さんは、バーンスタインと出会って数年後に、一大決心をして会社を辞め、もともと情熱を抱いていた舞台芸術の世界に足を踏み入れます。劇団四季のオーディションに合格し、役者として舞台に立ちながら、編集プロダクションの会社を立ち上げ、新しい人生を歩み始めるのです。その過程で、橋本さんがバーンスタインとの関係を自分のキャリアのために利用するようなことは一切ありませんでした。親しいごく一握りの人たちを除いて、バーンスタインとの関係について橋本さんは誰にも話すことがなかったのです。やがて橋本さんは、バーンスタインのマネージメント会社を率いるハリー・クラウトの信頼を得て、なんとバーンスタインの日本代表の役割を担うことになります。そうして、バーンスタインの晩年の仕事の中でももっとも大きな意義を持ったプロジェクトである、1985年の広島平和記念コンサートや、1990年に札幌で開催されたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)の企画運営に欠かせない人物として奔走するのです。

Dearest Lennyでは、天野さんと橋本さんがバーンスタインに送った、情熱的で誠実で聡明な書簡を読み解きながら、ふたりの愛情の形やバーンスタインとの関係の変遷を辿ります。そして、そのきわめてパーソナルな物語を、第二次大戦後の世界政治経済、アメリカ社会、世界における日本の位置付け、音楽産業の様相などの変化の大きな流れと絡ませて語っています。東京文化会館のオープニングや大阪万博、ソニー、小澤征爾さんなども物語において重要な役割を果たしています。日本に焦点を当てることで、これまでにたくさん論じられてきたバーンスタインの「世界のマエストロ」としてのありかたに、新たな光が当たるのです。

どうですか、面白そうでしょう?(と著者自ら言う)

生身の天野和子さんと橋本邦彦さんとの出会いを含め、この本が完成するまでには、本当にあれこれと紆余曲折がありました。これまでに何冊も本を書いてきましたが、この作品には特別の思い入れがあります。日本を舞台にした内容なので、いずれ日本語版も出版するつもりですが、それまでにはしばらく時間がかかりそうなので、英語を読もうというかたはぜひまずこの本を読んでいただきたいと思います。研究に基づいてはいますが、学者だけではなく広く一般読者のかたがたに読んでいただくことを念頭に置いて書いたので、文章は読みやすいはずだと思っています。

先週末に、英国ガーディアン紙の記事に本の内容を取り上げていただいたおかげで、世界各地でけっこう話題になっているようです。これからいろんなかたたちから本の感想を聞かせていただくのを楽しみにしています。

なお、本の発売に合わせて、私のウェブサイトを更新しました。本に出てくる音楽作品などのリンクを集めたDearest Lenny参考ガイドというページも作成しましたので、是非合わせてお楽しみください。

 


2019年8月5日月曜日

マウナケア山でTMT 建設反対運動が生むハワイアンの共同体




週末3日間、ハワイ島のマウナケア山に行ってきました。ここ3週間、ハワイアンの人々がリーダーとなって展開している、TMT(Thirty Meter Telescope)建設反対運動の様子を自分の目で見てみたかったからです。

ごく最近までは、この天文台建設をめぐる議論や騒動については、日本ではほとんど知られていなさそうだという印象をもっていましたが、先週朝日新聞のデジタル版に記事が載ったこともあり、だんだんとニュースが広がっているように思います。昨日はマウナケアでNHKの記者にもお会いしました。

まずは、簡単な背景説明から。

ハワイアンにとって神聖な土地であるマウナケア山は、環境保護地区として州に指定されており、開発が規制されています。天文台のような大規模な施設が建設されるためには、通常は、自然環境や先住民文化への影響などをめぐる厳しい審査を経なければいけないところが、天文観測に理想的な環境とされたマウナケア山頂には、そのような審査を経ずに1960年代から次々と望遠鏡が建てられてきました。マウナケア山頂では土地の宗教的・文化的な意味や自然環境に配慮がなされておらず、ずさんな管理で持続的にゴミや汚染の問題が起きていることが指摘されながらも、ハワイ州や州から山頂の土地を借りて管理するハワイ大学は適切な処置を取らず、数十年間にわたって地元住民や環境団体から抗議の声が上がっていました。1990年代後半には、州政府が実施した監査で30年間にわたるマウナケア管理の失態が指摘されたにもかかわらず、新たな望遠鏡が建設され続け、2004年には下水やディーゼル燃料、水銀などの漏洩が山頂で起きていたことも露呈されました。2011年にはすばる天文台で100リットルの冷却剤が漏れ、2週間にわたって天文台が閉鎖されました。

そのような状況の中で、ハワイアンの人々や地元の住民、ハワイ大学の学生団体などからの強い反対にもかかわらず建設計画が進められてきたTMTは、すでにマウナケア山頂に13基ある天文台のどれよりもはるかに大きな規模の、18階建のビルに相当するサイズの施設です。2015年に建設が開始されようとしたときには、マウナケアを守る活動家たちが抗議運動として山頂への道路をふさぎ、一時的に建設は停止されましたが、2018年には州最高裁が建設再開を認める判決を下し、この夏に建設道具などを山頂に運ぶ作業が始められようとしていました。

それを受けて、再びハワイアン・コミュニティのリーダーたちや若い活動家たちが、山頂への道路の入り口で座り込みを開始し、7月17日にはクプナと呼ばれる長老たちを含む40人近くが逮捕される騒動へと展開しました。平和的直接行動に対して州がこのような強行措置を取ったことに対して、ハワイアンだけでなくハワイの人々やアメリカ本土、海外からも大きな批判の声が上がり、この問題への関心が大きく高まってきました。マウナケア現地だけでなく、オアフ島でも州議事堂やワイキキ、ハワイ大学キャンパスなどで3週間にわたってほぼ連日デモが行われています。私も数回参加しましたが、ハワイアンだけでなく実に多様な人たちが緊急の呼びかけに応じて集まってくるのがとても印象的でした。














マウナケアでは、座り込みに参加する人たちが各地から集まり、これまでに最大で約3千人ほどの人たちが道路の入り口周辺に集まって、その多くはテントや車の中で寝泊りをしています。プロレスラーのThe Rockや俳優のジェイソン・モモアも抗議運動への賛同を表明するため現地を訪れています。私が行った週末には、ハリケーンが接近しているとの予報が前日にあり、小さなテントは撤去され、多くの人たちは安全な場所へ移動したものの、雨や強風のなか百人以上の人たちが現地に残って夜を明かし、翌日にはまた1000人以上の人たちが集まりました。

私はTMTの問題が明らかに悪化してきた数年前からマウナケアでの建設には反対でしたが、現地に行くことを躊躇していたのは、私がそこに出かけて行くという行為が抗議運動への支持の表明として最適な形であるかどうか、ハワイアンでない人間がハワイアンにとって神聖な空間に押し入ることにはならないか、私が行っても観光客のように外から事態を眺めるだけでなんの貢献にもならないのではないか、などという問いが頭をめぐっていたからです。

それでもとにかく出かけて行ってみようという気持ちになったのは、私の学部の博士課程に在籍している、この運動に深くかかわっているハワイ島ヒロ出身のハワイアンの大学院生が、「マウナケアで今起こっていることを、学部のみんなにぜひ経験してもらいたいので、興味のある人は案内する」と呼びかけて2泊3日の訪問を企画してくれたからです。教員・大学院生やその仲間合わせて約10人がこのマウナケア訪問に参加しました。彼がきわめて綿密で考え抜かれた計画を立てて案内してくれたおかげで、単なる傍観者ではなく、ボランティア活動をしたり、マウナケアに行く途中の道路脇で野生の花を摘んで夜にレイを作り神殿に捧げたり、ハワイアンのチャントを習って式典で歌ったりと、ほんの小さな形でもなにかそこで役割を果たす参加者として、マウナケアでの運動を経験することができました。




この3日間で見たこと、経験したことは、ハワイに引っ越してきてから20年以上が経つ私にとって、もっとも意義深いことのひとつとなりました。感じたこと・考えたことがたくさんありすぎて、まだきちんと言葉で整理できない感がありますが、そのときの印象や直後の思いを記録しておくことも意味があると思うので、ここでシェアしておきます。

一番強く感じたことは、今マウナケアで起こっていることは、TMT建設反対という直接的な目的もさることながら、それをはるかに超えた、まさにハワイアンの共同体創生の大きな波になっている、ということです。

警官が活動家たちをを立ち退かせようとしたり、リーダーたちが逮捕されるような状況のときには、非暴力的直接行動の訓練を受けた活動家たちが腕を組んで座り込みをするなどというアクションが取られます(無駄に状況をエスカレートさせないための、非暴力的直接行動のトレーニングが、現地では定期的に開催されていて、そこにいる人すべてに参加を呼びかけられます)が、TMT建設反対の声が強まると同時に、ハリケーン接近により建設工事もすぐには始まらないということで州知事の非常事態宣言が取り消され、エリア周辺にところどころ巡回するほかは警官も撤退した状況では、道路入り口付近に集まった活動家たちが一日中文字通り道路にじっと座っているわけではありません。

ではそこで何が行われているかというと、まさに、ハワイアンの共同体が営まれ、文化が実践されているのです。

毎日3回、朝8時と正午と夕方6時には、長老たちが常駐しているテントを囲んで、式典が行われます。山や太陽などの神々に祈りを捧げるチャントを歌い、何曲かのフラを踊り、そのあとで、遠隔地からマウナケア山とそれを守る長老たちに敬意を払うためにやってきた人たちやグループが、正式な挨拶としてチャントや歌や演説をしながら長老たちの前に進み出て捧げものをします。それに応じて受け取る側もチャントをします。多くの訪問者がある日には、この最後の部分だけで1時間以上もかかることもあります。








私は、宗教心というものがなく、多くの儀式や式典というものには興味がない人間なのですが、この式典は何時間でも立って見ていたいと思うくらい、身体や頭や心のあらゆる方向から強く響くものがあり、深く心を打たれました。ハワイで暮らすようになってからこれまで、もちろん何度もフラを見たりチャントを聴いたりしてきましたが、その多くは、何かのイベントの際にプロトコルとして行われるものであったり、パフォーマンスとして演じられるものでした。それらももちろん重要な意味を持ったものですが、マウナケアの山を前に広い広い空の下でのチャントやフラは、別の次元のパワーを持っています。オリやフラは、まさに祈祷であり、コミュニケーションであり、愛や決意の表現であり、なにより、ハワイアンの人たちの生きた文化なのだ、ということを深く実感しました。この美しくパワフルな式典を、ひとりでも多くの人に経験してもらいたいと強く思いました。

そして、それ以外の時間には、PuʻuhuluhuluUniversityと名付けられた青空教室が開催されています。この場所に集まった人たちが、式典の時間以外に何もせずにそこにいるだけではもったいない、せっかくだからここに集まる人たちのエネルギーを、ハワイアンの共同体の興隆につなげることに使おう、好都合なことに、マウナケアに集まってきている人たちの中には、ハワイ大学の教員や学生だったり、ハワイ語やフラの指導者だったりする人が多く、シェアする知識やスキルをたくさん持っている。ということで、現地に常駐している若い活動家たちが率先して企画したこの「大学」。毎日朝の式典でスケジュールが発表され、たいてい同時進行で複数の、多い時には5つもの「クラス」が開講されます。クラスの内容は、ハワイ語入門やハワイの神話や伝説、宗教や思想に関するものから、チャントや歌、ハワイ・太平洋地域の植民地化や軍事化の歴史、ハワイアンの移動やディアスポラの力学といったものまで、実にさまざま。そこにいる人は、ハワイアンでなくても、大人でも子供でも、ハワイ語やハワイの歴史や文化の知識があってもなくても、誰でも参加できます。途中で一つのクラスから別のクラスに移動してもよい。学位を持った人が権威として上から下に知識を伝授するという性質のものではなく、空の下、マウナケアの麓で、知や文化を共有し育成しよう、という精神の、有機的な教育活動なのです。こういうものが自然発生的に生まれて、毎日絶え間なく開講されているということは、本当にスゴイ。




山の麓の水道も電気もない場所で、日によっては何千人にもなる人たちが集まって、どうやって「生活」しているのか、というと、人々の見事な自律的運営と組織によっているのです。

長老たちの常駐しているテントを挟んで道路の反対側には、Pu’uhonua すなわち「安全な避難場所」として設置されたエリアがあります。そこには、キッチンテント、衣類や生活用品などを常備したテント、簡易トイレ、ゴミ分別テントなどがあり、すべてボランティアによって実に規律正しく運営されています。発電機も、飲食物や衣類や生活用品も簡易トイレも、そこにあるトイレットペーパーや消毒液なども、すべて各地の人々から寄付されたもの。食料は長老たちやそこに常駐している人たちのためのものなので、日帰りでやってくる人たちは自分の食べ物を持参するようにとは言われていますが、毎日集まる人が誰もお腹を空かせないだけの食料はじゅうぶんあり、常に何十人ものボランティアたちがテントで配膳や片付けに当たっています。トイレ掃除やゴミ処理担当のボランティアも絶えず作業しているので、一帯は実にきれい。私は道路のT字路の両側1キロずつくらいのエリアのゴミ拾いをしたのですが、テントや車で寝泊まりしている人たちも日帰りでやってくる人たちも、みな責任ある行動をしているので、ほとんどゴミといえるようなものは見つかりませんでした。

このことからも、マウナケアで「カプ・アロハ」の精神が徹底して実践されていることがわかります。毎日3回の式典では、運動のリーダーたちが繰り返し、この地での戒律についてみなをリマインドします。誰に対してもアロハの精神で接すること、自分たちの行動を自分で律すること、飲酒や喫煙は一切禁止、ゴミを出さないこと、などといった規律を、みながしっかりと守って行動し生活しています。


そういう共同体ゆえ、皆が本当に温かくお互いに接します。すれ違う誰もが目を見合わせてにっこりしてAloha!と挨拶するし、私が「ごみありませんか〜」と言いながらたくさんのテントが張られた道路沿いを歩いていると、ごみのない人(がほとんど)を含めみんながMahalo!と感謝の気持ちを表現してくれるし、誰かが「ちょっとこれを動かすので手伝ってください」などと呼びかけると、瞬時に近くの人が10人も20人も集まってあっという間に作業が終わるのを見て、胸が熱くなりました。

さらに印象的なのは、ここに集まっている人たちの年齢がきわめて幅広い、ということ。長老テントに常駐しているリーダー層は70代や80代。1970年代のハワイアン運動のリーダーの一人であったMililani Traskや、ミュージシャンとして日本でも知られるKealiʻi Reichelもいますが、マウナケアでこのコミュニティを運営している人たちの多くは、1970年代から1980年代にハワイアン運動の一部として開設されたHawaiian immersion school(すべての学科をハワイ語で勉強し、生活でもすべてハワイ語を使用する学校)で教育を受けたり、子供の頃から真剣にフラを勉強したり、さまざまな形でハワイアン運動に携わってきた世代。そうした人たちが、自分たちの子供を連れて、マウナケアの麓に生活の場と共同体を作って、神聖な土地や自然環境を守っているのです。

「抗議運動」というと、血気盛んな若者や中年男性たちがヘルメットにマスクで突進する、などというイメージを持つ人もいるのではないかと思いますが(いないか?)、マウナケアでは、ティーンエイジャーもたくさんいるし、家族ごとこの共同体にコミットしている人たちが多く、抱かれた赤ちゃんやちょこちょこ歩きの幼児、小学生くらいの年齢の子供たちが何百人もいるのに驚きました。そんな子供が割れ目のたくさんあるゴツゴツした溶岩の地面を走り回っていて危なくないのか、と思われそうですが、これだけみながアロハの精神で連帯している場所なら、まったく危なくないだろうということがわかります。

また、Puʻuhuluhulu Universityのクラスをいくつか覗いてそこで交わされている会話を聞いて感じたことは、ここに集まっている「ハワイアン」の人たちは、「ハワイアン」であることについて実に多様な経験や思いを持ちながらも、TMT建設の危機によってものすごい勢いでこの場に吸い寄せられるように集まってきて、「ハワイアン」の意味を考え直し、ハワイの土地や文化へのコミットメントを新たにしている、ということです。ネイティヴ・ハワイアンの血を引く人でも、ハワイで暮らしたことのない人たちはたくさんいますし、ハワイで生まれ育ったハワイアンでも、ハワイ語やハワイの文化をほとんど知らずに成人した人たちも少なくありません。福音派クリスチャンやモルモン教信者のハワイアンもたくさんいますし、LGBTQのハワイアンもいます。ハワイアン運動の活動家の中でも、ハワイ語やハワイの宗教や神話などの文化的知識を重視する人と、より政治的な問題を重視する人がいます。ハワイアン運動にこれまで深く関わってきた人も、これまで無関心だった人もいます。そうした人たちがここに集まって、一緒に生活しながら、ハワイアンの共同体を営んでいるのです。このことは、TMTそのものがどうなるかを超えて、とても大きな意味を持っていると思います。

人々が祈りを捧げフラを踊り、長老たちに敬意を表し、共同キッチンを運営しトイレの掃除をし、青空のもとで教室を開催している、そのマウナケアの麓で2019年の夏を過ごした子供たちが、10年、20年、30年後に成人してリーダーになった時のハワイがどのような社会になっているのか。それを見ることができるのなら、このまま一生ハワイで過ごすのもよいなという気持ちにもなりました。




この投稿を書いている最中に、TMTの代表がマウナケアの代替案として候補に挙がっているスペインのカナリア諸島に、天文台建設の許可申請を提出したというニュースが出ました。TMTは日本の国立天文台を含む複数の国の大学や組織が共同出資して法人化されている複雑な機構なので、土地を提供するハワイ州や管理するハワイ大学がたとえこの事業の進行に躊躇したとしても、そう簡単に中止したり移動したりできるものではないでしょう。どう収束するのかは私には予測できません。

ただ、マウナケアに行ってみて確信したのは、山にテントを張っている長老たちやそのサポーターたちは、何があってもあの場から動かないだろう、ということ。いざとなったらトラックの下敷きになる覚悟があるだろう、ということ。

そして、マウナケアを中心に、ハワイアン運動の大きな波が高まっている、ということ。長い植民地化や軍事化の歴史の中でいろいろな形で脅かされてきたハワイという共同体が、政治的にも文化的にも強化されつつある、ということ。

また、オアフで行われているアクションやメディアでみるニュースからみて確実なのは、活動家たちを支持する声や運動は急速に広がっている、ということです。

ハワイの住人としても、TMTの建設資金の20パーセント以上を出資する日本の人間としても、他人事として傍観してはいられない、と思いました。日本も夏休み。ハワイに旅行に来る人たちも多いでしょう。観光以外にも、ハワイは日本との関わりの深い場所ですので、マウナケアで起こっていることを、少しでも日本の人たちに知ってほしいと思います。