2010年6月17日木曜日

無責離婚の功罪

40年前にカリフォルニア州で初めて無責離婚が制度化されて以来、全米の各州で次々と無責離婚が可能になったにもかかわらず、唯一それをはばんでいたのがニューヨーク州。そのニューヨークがついに無責離婚の制度化に踏み切るというニュースを受けて、アメリカの婚姻や家族の歴史を専門とする著名な社会史家のStephanie Coontzが、ニューヨーク・タイムズに論説を寄せています。

無責離婚が制度化される以前は、別離を決めた夫婦は、ふたりのうちどちらかいっぽうに責があるということを証明できなければいけなかった。不倫や暴力などの事実がある場合はそれを証明しやすかったけれども、より精神的・感情的なものが理由の場合は、ことはややこしい。そして、たとえ離婚を双方が希望していて、片方が責を認めるという合意がある場合でも、もう片方がその責に加担するようなことをしてこなかったことを証明できなければいけなかった。たとえば、夫が威圧的で妻や子どもが恐怖のうちに日々を送っていた、という場合でも、妻が口うるさく喧嘩を売るような言動をしていた、と判断されると、裁判官は離婚を認めなかった、といったケースもあったそうです。つまり、どんな状況が離婚を認めるにじゅうぶんな理由かという判断が、司法の手中にあり、当人たちが結婚に求めるものや感情の変化などは二次的なものと考えられていたわけです。こうした制度のもとでは、双方が別離に合意している「友好的」なケースであればあるほど、二人が協力してひとりの責をでっちあげる、などといった傾向も見られたそうです。

本来は結婚制度を守るために離婚の手続きが複雑となっていたにもかかわらず、それによってかえってその制度の穴をくぐったり操作したりする夫婦が増えてきたために、州は次々と、どちらかの責を証明しなくても、双方または片方が望めば離婚できるように法律を変えていきました。当初は、そうした無責離婚は、夫婦両方が離婚に合意したケースのみ認められる、と規定していた州もあったのですが、それだと、高額の慰謝料を手に入れようとして片方がなかなか離婚に同意しなかったり、相手に責をかぶせようとして探偵を雇ったりなどと、不快で対立的な係争が増えたために、徐々にすべての州では、片方がその結婚を継続できないと主張すれば、離婚の手続きができる(ただし、その手続きにかかる期間や、義務づけられている熟慮期間は州によってまちまち)ようになりました。そのなかで唯一、ニューヨーク州では、双方が離婚に合意し、最低一年間別居していなければ、無責離婚はできない、(それに当てはまらない場合は、離婚を希望するほうが、相手の責を証明できなければ離婚はできない)という厳しいシステムをとっていました。私の友達でも、この制度のために、ふたりの心はとうに離れていたのになかなか離婚ができなかったという人がいます。(とくに住居費の高いニューヨーク市では、別れることになったからといってそう簡単に引越先を見つけられるわけでもなく、別れた後でも一つ屋根の下でしばらく暮らすカップルがけっこういるので、この制度はかなり厳しい。)

どの州でも、無責離婚が可能になった直後の約5年間は、離婚率が上昇したものの、その後は離婚率は安定し、どこでも無責離婚が当たり前になってからは、離婚率が1979年の1000組に23から2005年の1000組に17と下降していているそうです。また、無責離婚を制度化した州では、妻の自殺率や家庭内暴力の発生率が急速に下がっている、という統計もあるそうです。

もちろん、比較的簡単に無責離婚が成立するようになると、それまで結婚生活を守ろうとしてさまざまな投資をしたり犠牲を払ったりしてきたほうが、経済的にも精神的にも大きなダメージを受けやすい(たとえば、相手が学位をとるために大学に通うあいだ、ひとりで家計を支えていた人が、相手に一方的に離婚を言い渡される場合など)、というデメリットはあります。そのいっぽうで、いざとなれば離婚をしてもいいと考える人にとっては、結婚生活の諸問題に真剣に向き合おうとしない相手に対して、「カウンセリングに行くなり、他の形なりで、問題解決にきちんと取り組まないならば、離婚する」と言うことで、相手にプレッシャーをかけることができ、夫婦間での交渉力が高まる、という側面もある、とのこと。(アメリカでよくある、カップルズ・セラピーとよばれるカウンセリングは、結婚を継続させていくのにそれなりの効果があるとのデータが出ているらしいです。)

皮肉というべきか、カウンセリングや友好的な調停を経て離婚に至った夫婦のほうが、対立的な裁判を経て離婚に至った夫婦よりも、離婚後後悔の念が強いのだそうです。でもまあ、それはそうでしょう。ふたりのあいだに愛情や思いやりがあって、別れることは仕方ないにしても双方のダメージを極力小さくしようと努力したふたりは、終わってしまった結婚生活についてもいい思い出もあるでしょうし、複雑な気持ちがあるでしょうが、家具ひとつをめぐって壮絶な争いを法廷でするようになってしまったふたりは、結婚生活が終わってせいせいするでしょうからねえ。でも、離婚が避けられないならば、そのどちらがいいかと言えば、前者のほうがいいだろうという、著者の意見に、私も賛成です。