ハワイ大学アメリカ研究学部教授、吉原真里のブログです。『ドット・コム・ラヴァーズーーネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008年)刊行を機に、アメリカのインターネット文化や恋愛・結婚・人間関係、また、大学での仕事、ハワイでの生活、そしてアメリカ文化・社会一般についての話題を掲載することを目的に始めました。諸般の事情により、2014年春から2年半ほど投稿を中止していましたが、ドナルド•トランプ氏の大統領選当選の衝撃で長い冬眠より覚め、ブログを再開することにしました。
2009年5月25日月曜日
クライバーン・コンペティション第4日
クライバーン・コペティションの予選5日間のうち今日が4日めです。それぞれの演奏を聴きながら、あるいは聴いた直後に感想をメモしておけばいいのですが、いろいろな人と話をしたりあたりを観察したりしているうちに休憩時間はすぐ終わってしまうので、落ち着いてものを書くという感じにもならず、そうこうしているうちに、10人めを超したあたりからもう、「こんな腕の人たちを比較して優劣つけるなんてまったく不可能だ」と諦めてしまいました。
今朝は、予選1日目に演奏したアメリカ人Stephen Beusをインタビューしました。彼は、ワシントン州西側の田舎で、モルモン教の大家族(彼は8人兄弟のまんなか)で育ったという、ピアニストにしてはけっこう珍しい背景の持ち主です。モルモン教の若者の多くがするように、二年間海外宣教のためにフィンランドに住んでいたこともあるのですが、ヘルシンキに行くまでは生まれて一度もアルコールの匂いをかいだこともなかったし酔っぱらった人というものを見たこともなく、フィンランドはたいへんなカルチャーショックだったということです。その後彼はジュリアードに進学したので、「じゃあニューヨークはそれに輪をかけたカルチャーショックだったでしょ」と言うと、「確かにそうだけど、フィンランドがいい準備になった」と言っていました。フィンランドがニューヨークの準備というのも面白いものです。モルモン教徒であること、モルモン文化のなかで育ってきたことが、自分の音楽性になにか影響していると思うかと聞いてみたところ、「具体的にその部分を全体からわけて考えることは不可能だけど、自分の信仰は自分という人間を作っている重要な一部だから、必ずそれは自分の音楽の一部でもあるはずだと思う。精神的に健全な生活を送ろうという態度は、音楽にも現れると思う」と言っていました。彼はジュリアードでMusicians from a Different Shoreのカバーを見てとても興味をもっていた、と言うので、一冊プレゼントしてきました。彼が滞在しているホストファミリーの家も、これまた巨大な家で、母屋(などという表現が実際に使えてしまうのです)の後ろに、立派なキッチンからなにからそろった別のゲスト用スイートがあるのです。ホストファミリーをしている家はみなどこもクライバーン・コンペティションの旗を家の前に掲げています。こうしたところにも、クライバーン・コンペティションが街の住人のひとつのアイデンティティになっていることがわかりますが、ホストファミリーの家や実際のコンペティションを観に来ている人たちの層を見ると、これはあくまで限定的な「コミュニティ」であることが明らかです。このあたりは、もっと時間をかけて検討するつもりです。
さて、今日の6人の演奏のうち、私がもっとも気に入ったのは、オーストラリア出身中国系のAndrea Lamと、先日私がインタビューしたHaochen Zhang。Haochenは自分が知り合いになったからどうしてもひいきめに聴いてしまうのは否めませんが、それを差し引いても、彼のベートーベン・ソナタOp.110は見事にコントロールが効いていていたし、ショパンのポロネーズ=ファンタジーは華麗だったし、ストラヴィンスキーのペトルシュカは、彩りの鮮やかさに、ピアノを聴いているという次元ではなくてまさに音の饗宴を前にしている、という気持ちにさせられました。彼はまだ19歳にもならない最年少で、先日載せた写真を見てもわかるように、まだ少年のようなあどけない顔をしているのですが、演奏が始まるやいなや、まさに音楽の霊にとりつかれたように表情が変わり、その変身ぶりを見るだけでも迫力がありました。こういう人は、本当に音楽をやるために生まれてきたんだなあと感じさせます。Andrea Lamのシューマンのファンタジー組曲は、まるで愛しい恋人ひとりに向けて弾いているような親密さがありました。あんなに大きく荘厳なホールでその親密さを出すのはとても難しいはずです。それから、グラナドスのゴイエスカから二曲(うちQuejas o la maja y el ruisenorは私も弾いたことがありますが、なるほどこんな風に弾くべきものなのかと、目からうろこでした)、そしてAaron Jay KernisのSuperstar Etude No.2という現代曲で終わるという、選曲もとても面白いプログラムでした。今日のこの二人にはぜひ次のラウンドまで進んでもらいたいと思います。
ホールから出るときに、クライバーン財団のマーケティングの人としゃべっていたら、「ぜひ日本語でクライバーンについての正式ブログを書いてくれ」と言われました。明日打ち合わせをしに行くので、もし実現するようでしたらその情報もこちらに掲載します。なんだかたいへんなことになってきました。