今日でセミファイナルが半分終わり、ソロリサイタルと室内楽それぞれ6人ずつ聴いたところです。今日は、この6人の室内楽を聴いて私が達した無茶苦茶な結論:「ハンサムな白人の男の子は室内楽が下手である」。こういう無茶苦茶なことは私の本業である学問の世界では絶対言えないので、ブログで言います。(笑)
今までの6人の室内楽の演奏のうちで、私がいいと思ったのはDi Wu, 辻井伸行さん、そしてAlessandro Deljavan。これに対して、特によくも悪くもなかったのがRan Dank、よろしくなかったのがEduard Kunz、Michael Lifits。よろしくなかった二人は、ハンサムな白人の男の子です。私がもっと若かったらすっかりとろけてしまうようなルックスですが、実際には私より一回り以上も年下なので、とろけてしまうというよりは「食べたくなっちゃうくらいキュート」という感じ。この二人の予選のリサイタルはどちらも私はとても気に入っていたのですが、室内楽はよろしくなかった。Kunzについては昨日書きましたが、なんか自己満足で勝手なことをしてしまって、弦とのまとまりもないし曲としての筋も途切れてしまうのです。それに対して、Wu, 辻井さん、Deljavanは、弦とぴったり呼吸が合って、テンポや音量を変えていくときも、ちゃんとみんなと合って聴衆の納得のいくような変化ができる。
これは、「ハンサムな白人の男の子」は、基本的に自分が世の中の基軸であることに慣れていて、他の人に合わせるとか全体のなかでの自分の位置というものを考えることをしないからではないでしょうか。自分が大好きっていう感じもします。自分が大好きでもちろん結構なんですけれど、自己陶酔的に勝手に進んでいかれても、室内楽ではうまくいきません。それに対して、よくできていた三人は、アジア人女性、目が不自由なアジア人男性、そして、失礼ですが決してハンサムとは言えない、あきらかに「モテる」タイプではないイタリア人男性。こういう、メインストリーム社会の尺度で周縁に位置している人たちは、「ハンサムな白人の男の子」と比べると、世界において自らがおかれている位置というものを普段から認識して生活している。さまざまな差別や偏見や嘲笑も受ける。そうしたなかで、自分と社会の関係をつねに意識しながら、音楽を通じて自らの声というものを創りあげてきた人たちなわけです。そうした人たちは、もちろん強い自我やアイデアは持っているけれど、それをただひたすら全面に押し出して大声(またはやたらと小さい声)で言ってみてもうまくいかないことを知っていて、他の人たちと合わせながら、自分の役割をしっかりと演じ、前に出るべきときは前に出てしっかりとものを言い、後ろに下がるべきときはきちんと下がる。室内楽にはこういうことがとても重要なんじゃないかと、Deljavanのブラームスを聴きながら思いました。私は彼の予選のリサイタルは、なんだかいかにもイタリア人男性っていう感じのマッチョな演奏だなあと思って、それほど気に入らなかったのですが、今日の室内楽を聴いてすっかり見直しました。
ソロのリサイタルに関しては、私はYeol Eum Sonは少なくともファイナルには進むべきだと思います。私は予選のときも彼女の演奏はとても好きでしたが、今回のもとてもよかった。選曲にしても演奏のしかたにしても、spunky(って日本語でなんて言うんでしょう)なところのあるのが私の好みです。予選のハイドンに始まる「伝統的」なプログラムのときは、まるで18世紀の宮廷舞踏会で着るような裾の長いピンクのドレスを着て、今回のドビュッシーに始まるモダンづくめのプログラムにはそれに合ったセクシーなtemptressのようなドレスを着て登場するあたり、プレゼンテーション全体もよく考えてあって、拍手。