2010年6月28日月曜日

アメリカのセックスレスは社会階層の問題?

日本でしきりにセックスレスがとりあげられています(そして、私の印象によると、たしかにセックスレスは日本に蔓延しているようです)が、アメリカでは、最近、食品医薬品局が、性欲が低下した女性のための薬品の市販を現時点では許可せず、しかしそうした薬品開発のためのさらなる研究は促進する、という決断をしました。それを受けて、1990年に刊行されベストセラーとなったSexual Personaeという著作で一大センセーションを巻き起こした評論家のカミーユ・パリアが、ニューヨーク・タイムズに論説を寄稿しています。

その主な論旨は、現代アメリカにおける性文化の停滞(「セックスレス」とは限定されていませんが、要は性に対する関心の低下)は、神経質で競争心に満ちた白人のアッパー・ミドル・クラスの文化に起因するのではないか、という仮説。1950年代にも、女性の「不感症」がしきりに話題にされたけれども、それはおおむね社会規範への同化を求める文化や性をめぐる宗教観が原因と考えられていた。それに対して、1960年代の性革命以来、アメリカ文化は圧倒的に世俗的なものとなり、メディアの表象は性に溢れるものとなってきたので、1950年代と同じような要因が現代も働いているとは考えにくい。現代アメリカにおける性の停滞の真の原因は、「行儀の良さ」とか「きちんとしていること」に重きを置くミドルクラスの文化だ、というのです。

ミドルクラスのテクノクラシー社会では、身体性は抑圧され、男性も女性も、無機質なオフィスで声をひそめ身体を動かさずに、頭脳中心の似たような仕事をする。男性はその男性性を抑え、女性は出産を遅らせる。そうした社会にあって、性文化が停滞し退屈なものになっていくのは自然なことである、と。19世紀には互いに見えない部分があるからこそ神秘に満ちてた男性と女性が、社会的にも文化的にも同じ領域を占めるようになり、ミステリアスなものがなくなってしまった。また、幼少の頃から中年にいたるまで、男性はだっぽりしたTシャツ、短パン、スニーカーという少年のようないでたちをし、豊満さよりも引き締まった身体が尊ばれるようになった女性たちも、無性的な格好を好んでするようになった。現代アメリカにおいて、セクシーな下着を熱心に買い求めるのは、下層部のミドルクラスまたは労働者階級であって、そうした性文化は、音楽などのポピュラー・カルチャーにも表れている、とのこと。

まあたしかに、と納得する部分もありますが、ここ1年間近く日本で生活している私には、現代アメリカ文化もじゅうぶん性的であるように思えますがねえ(笑)。私の印象では、日本では、じっさいに男女がどれだけ性行為をしているか(いないか)ということはともかくとして、なんだか世の中全体にまったく色気が感じられない。それはいったいどこから来るのだろうと、ずっと考えているのですが、この話をしたときのある人の発言によると、今の日本では、男性と女性云々という以前に、他人とのかかわりというもの全般にとても関心が薄い。それが実際に性的な行為に発展するかどうかは別として、社会の空気に「色気」を生む緊張感というものは、他人への関心とか出会いの可能性とかいったものから自然発生するものであって、混雑した電車でもエレベーターの中でも人々がいっさい目を合わせることなく、もちろん見知らぬ相手と会話することなどなく、極力他人との関わりを避けて日々暮らしているようななかでは、そりゃあ色気は生まれないだろう、と。これはとても納得がいく説明でした。

今、桜美林大学でハワイ大学からの留学生を相手に教えているAmerican Travel Writingという授業で、日系アメリカ人作家のKyoko MoriのPolite Liesという作品を読んでいます。私は彼女の書くものには「日本=封建社会、アメリカ=自由と解放の国」といった構図が流れていてなんとなくうんざりすることが多いのですが、この作品で彼女が記述している日本観察には強い共感を覚える部分も多いです。最近ではさすがにだいぶ慣れてきたものの、私は一年ほど前に日本で生活をし始めたころ、電車でもバスでも、どんなにたくさん人がいても、ひたすらしーんとしているので、とてつもない違和感を覚えました。『性愛英語の基礎知識 』で説明するような、"Have I seen you somewhere?"なんてセリフが、東京の駅や喫茶店で発話されるなんて状況は、とうてい想像できないですからねえ。