2011年5月19日木曜日

ピアノ・テキサス・ミニ・セッションにて

アマチュア・クライバーン・コンクールが開催されるテキサス・クリスチャン大学で、ピアノ・テキサスというワークショップに参加して今日が2日目です。このピアノ・テキサスは今年で30年目になるワークショップで、音楽教師のためのプログラムや若い音楽学生のためのプログラムなど多様な構成になっているのですが、私が参加しているのは、アマチュア・クライバーン・コンクール出場者のためのミニ・セッション。コンクール前に、マスタークラスやコンサートで舞台上で演奏し「本番」に向けて準備をするという主旨で、今回の参加者は15人。昨日顔合わせをしてから、5日間、昼間にはマスタークラス、夜はコンサートが詰まっています。

2日目の午後である現在、私はまだ舞台には立っていないのですが、他の人の演奏を聴いて、ぶったまげることしきり。「とんでもないところに来てしまったものだ」と焦る気持ちでいっぱいになります。プロ(志望者)のコンクールで世界から集まってくるトップの演奏家たちがとてつもないレベルであるのは当然としても、アマチュアの世界でも、グローバルスタンダードというのはこういうレベルなのかと、目が点になるほどみんな上手い。それも、指がよく動いて上手に弾くというだけならともかく、それぞれの人の演奏には、その人の人生や人間性が滲み出るなんともいえない味わいやこだわりが感じられて、たいへん魅力的です。この道で生きていくというプロ志願者ならともかく、この人たちは皆、医者だったり弁護士だったり(今回の参加者は、やたらと医者と弁護士が多い)建築家だったり教師だったりエンジニアだったりと、時間的にもエネルギー的にも要求の多い仕事をしている人たちばかりで、いったいいつどうやって練習時間をひねり出しているのだろうと不思議でたまらない。世界の各地で、そういった人たちが、少しずつでも時間を見つけてはピアノに向かい、好きな音楽と向き合っている、その成果をみると、人間ってすごいなあと感動します。その姿を見るだけで、自分が演奏しなくてよければ、感心したり感動したりしていれば済むのですが、この人たちのなかに入って自分が演奏しなければならないのだと思うと、そーっと逃げ出したい気持ちになります。なにかの間違いで小学生が大学院のゼミに迷いこんでしまい、他の学生と一緒にディベートをしなくてはいけなくなったような、そんな気分。自分の性格に似合わず妙に弱気で及び腰になってしまうのですが、誰に頼まれたわけでもなく好きでやってきているのだから、とにかくここにいることで学べることはすべて学び、自分なりに成長して、そして楽しい時間を過ごせればと思っています。24時間いつでも練習できるようにと各人にあてがわれた練習室は、音大の練習室に典型的な、窓のない小さな部屋で、なんとも圧迫感がある上に、廊下を歩いていればもちろん、部屋のなかにいても近くの部屋から他の人の練習している音がずーっと聴こえてきて、これまたプレッシャー。でも、それぞれが音楽と関係のない仕事をしている大人たちにとって、ふだんこんなふうに連日朝から晩までピアノにどっぷり浸かっていることはたいへんな贅沢。ここにいる人たちはみんな、仕事や家族から休みをとって、かなりのお金を使って、ワークショップとコンクール合わせて2週間、ピアノ三昧の時間を過ごしているわけです。人生の贅沢とはこういうことを言うのだとしみじみ思います。

私は以前から、マスタークラス(聴衆の前で演奏し先生の指導を受けること)を見学するのがとても好きで、このワークショップでも、数えきれないくらいのマスタークラスを見られる(自分がマスタークラスで演奏するのは2回)のが素晴らしいのですが、参加者の多くは自分の練習に忙しく、初めの数人ぶんを除いては、マスタークラスにはほとんど見学者がいない状態。そんななかで私は、自分の練習そっちのけで、他の人が指導を受けるのを見ています。(コンクールで成功を狙っている参加者とは、自分の取り組み姿勢が違うのがこのあたりからすでに露呈している。)他の人の演奏から学ぶこともとても多いし、先生たちの指導のしかたも素晴らしく、生徒としても教師としても、とても勉強になります。自分が演奏しなくてよいのであれば、私は毎日一日中マスタークラスを見て過ごせれば大満足なのですが、マスタークラスを数時間見学していると、だんだん焦った気持ちになってきて、さすがの私も練習室に向かう、ということを繰り返しています。

というわけで、せっかく練習室に座っている時間を無駄にしないために、パソコンを置いてピアノに向かいます。