つい一昨日言及した『Slumdog Millionaire』がゴールデングローブ賞をとりました。これだけ話題になったら近々日本でも公開になることでしょう。
ハワイ大学では昨日から新学期が始まりました。今学期は私は先学期と同じアメリカ女性史の授業と、アメリカ研究専攻の学部生の必修ゼミを担当していて、今日両方とも最初の授業がありました。必修ゼミのほうは、19世紀後期から現代までのアメリカ史を大雑把に追いながら、「アメリカン・スタディーズ」という分野のアプローチのいろいろを紹介し、一次資料を使ったリサーチの仕方を学生に教えるのが目的なので、リーディングは比較的少なめにして(といっても、一学期でまる3冊研究書を読むので、日本の平均的な大学の授業と比べたらけっこう多いほうだと思いますが)、学期の過程で学生にいろいろな一次資料を手に触れさせて、それらの資料が授業で読む研究書の議論を果たして本当にサポートするかどうか、といった分析をさせます。マイクロフィルムなんて見たこともない学生がほとんどなので、1890年代の雑誌とか1920年代の学生新聞とかを無理矢理読ませて、それぞれの時代の雰囲気をかがせるだけでも意味があると思っています。
女性史の授業のほうは、先学期は25人だったのが今回はその倍近く学生がいるので、授業のやりかたをだいぶ調整しなければいけません。50人前後というのは、大学の授業としてはかなり中途半端でやりにくいサイズです。25人くらいまでだったら、全員が参加するディスカッションが成立するので、講義と課題のリーディングについてのディスカッションを混ぜながらやればいいし、60人を超えたらディスカッションをするのは無理なので、普段の授業では効果的な講義をすることに集中して、あとはティーチング・アシスタントを使ってディスカッションをすればいいですが(アメリカの大学のこうした授業はたいてい、一つの授業につき週に2回の講義と1回のディスカッション・ミーティングがあります)、40−50人というのはそのどちらでもないので、どうもやりにくいんです。私はこういうサイズの授業を教えたことがないので、試行錯誤してやることになります。今日のニューヨーク・タイムズに、マサチューセッツ工科大学が、物理の入門レベルの授業の形式を抜本的に改革して、目に見えた効果をあげている、という記事があります。大教室での講義という伝統的な形式は、もともと物理の得意な学生にはいいけれども、そうでない学生にとっては学習効果が低く、欠席率も落第率も高かったのに対して、新しく導入された、学生がグループで実践的に問題を解いたり実験をしたりする小人数の授業形式では、学生が積極的に関わって習得率も高い、ということです。同様の授業形式が、ハーバードなどでも導入されているそうです。
私の友達にも、ハワイ大学で物理と天文学を教えている人がいるのですが、彼の専門のひとつは「物理教育」、つまり、どうしたら効果的に物理を学生に教えられるか、ということを研究することです。物理そのものを研究するのではなくて物理の教育のしかたを研究するのは、なんとなくランクが下のように考えられがちですが(彼は物理そのものの研究ももちろんやっていますが)、近年理数系の分野で世界のリーダーとしての地位を失いつつあるアメリカでは、こうした教育法にはかなりのリソースが注がれています。理数系に限らず、人文科学や社会科学でも(というか、むしろ全体としては、理数系の学者は「教える」ということにそれほど熱意を注がない人が多いのに対して、文系の分野では、教えるのが好きで大学教授になった人がけっこう多いので、授業への熱心度においては一般的には文系のほうが高いと言えるでしょう)、アメリカの大学では「どのように効果的に授業をするか」という議論がかなりさかんになされ、各種のワークショップが行われたりします。もちろん、そんなことにはまるで興味なく、何十年も同じような講義をし続けている教授もいますが、授業で使う教材や授業のしかたや課題の設定などについていろんな工夫を凝らす教授の割合としては、日本よりアメリカのほうがずっと高いのは間違いないでしょう。とくに、リベラル・アーツ・カレッジと呼ばれる、学部生の教育をミッションの第一に掲げているような私立大学では、学生自身が授業や教授に期待・要求するものも非常に大きいので、教育にかなり熱心な人でなければ、そういう職場では勤まりません。
私は、授業でどんなことをどんなふうに伝えるのが効果的かといったことを考えるのは好きなのですが、実際にそれを実行しようとなるとあまりにも多大な時間と労力がかかるので、学期途中で息切れして面倒くさくなってしまうのがよくあるパターンです。でも、1週間目から息切れしていられないので、頑張って木曜日の授業の準備にとりかかりまーす。