2009年1月18日日曜日

オバマ大統領就任を前に

アメリカは明日はマーティン・ルーサー・キングJr牧師記念日で休日です。その翌日がいよいよオバマ大統領就任の日です。なんという象徴的なときなのでしょう。日本でも報道されているでしょうが、この歴史的な瞬間に居合わせようと、そしてその瞬間を何十万人という赤の他人と共有しようと、すでにワシントンにはものすごい数の人々が押し寄せています。さまざまな団体や企業が主催しているたくさんのパーティやコンサートの様子もさることながら、テレビに写る、全米そして全世界のあらゆるところから万難を排してワシントンまで駆けつけてきた一般人の老若男女の姿、なかでも黒人たちの姿に一番感動します。白人と同じ店で食事をできなかったり、乗り物で好きな席に座れなかったり、学校に通うのにも身の危険を感じなければいけなかった時代を経験した人たちにとって、黒人の大統領が誕生するというのは、言葉では表現できないほどの大きな意味があることでしょう。そして、生まれたときにはすでに世界にeメールが存在した若い世代(こういう表現を使ってしまうところに自分のトシを感じます)にとっても、オバマ氏がどれほどの存在か、アメリカじゅうでオバマ氏について学校で学ぶ子供たちの姿の報道でよく伝わってきます。

オバマ氏の就任演説を控えて、毎日新聞記者の友達に取材を受けたので(20日の毎日新聞夕刊に載る予定らしいので、よかったら手に取ってみてください)、オバマ氏の選挙キャンペーン中のスピーチの代表的なものをちょっと復習してみました。あらためて、オバマ氏の言葉の力に深く感動しました。とりわけ人と違う気の利いたコメントはありませんが、私がなんといってもスゴいと思うのは、2008年3月18日フィラデルフィアでのいわゆる「人種スピーチ」と、当選が決まった11月4日シカゴでの当選演説です。人種スピーチは、ライト牧師の扇情的な発言に批判が高まるなかで、アメリカの歴史と社会における爆弾といえる、人種というきわめて難しい問題に正面から向き合って、オバマ氏の人種観、社会観、そして道徳観を示した演説です。深い歴史的認識にもとづいて、黒人そして白人の両方がもちつづける怒りや苛立ちへの理解を示しながらも、怒りという感情を動力にして行動することは歴史や社会を変えるための生産的な道とはなりえないこと、そして、差別や偏見や経済や社会構造によって不当な扱いを受けてきた人々は、そうした不正に対して声を大にして闘うと同時に、自分に対する不正とは別の形の不正を受けている人々と手を結び、ともに前進することが肝要であることを、冷静かつパワフルに説いています。半分黒人である自分を愛情こめて育ててくれた自分のおばあさんが、ときには人種差別的な行動や発言をする人でもあったことに言及し、人種問題というのは決してきれいごとではないこと、人々の善意だけでやがて自然に解決していく問題ではないことも、率直に語っています。最後の、Ashleyという若い白人女性と年老いた黒人男性についてのエピソードが心を打ちます。当選演説は、私は歴史に残る名演説のひとつだと思います。何度聞いても読んでも私は涙が出てきます。どちらも、全文を読むこともできるしYouTubeでビデオを観ることもできますので、是非読むなり観るなりしてみてください。

もちろんオバマ氏が当選したのは彼の政策を投票者が支持したからですが、オバマ氏の演説がアメリカの人々の心を打つのは、彼がアメリカの人々に対して尊敬と信頼の念を抱いていることが伝わってくるからだと思います。彼のスピーチには、アメリカの人々を形容する言葉としてdecencyとかgenerosityとかdignityとかいう単語がしばしば登場しますが、アメリカの人々というのは根源的には善良で寛容で威厳のある行動をする人々である、ということを彼が信じていて、そうした人々が偏狭なドグマや差別や偏見の心に打ち克って、手を取り合ってなにかをしようとすれば、信じられないようなことを成し遂げることができるのだと、彼自身が本当に思っていることが伝わってくるからだと思います。教師に「この子は資質がある」と信じてもらえる子は教師を信頼して伸びていくのと同じように、リーダーに信頼してもらえる国民は、リーダーを信頼し尊敬して自分も努力をするようになるのではないでしょうか。政治的レトリックを使ってものごとを単純な白黒や善悪の二項対立に還元して国民を駆り立てようとするのは、国民の知性と判断力を馬鹿にした行為であって、そうしたことをせず、複雑で困難なことは複雑で困難であると率直に伝え、その上で具体的な方向性を示しながら人々の努力と協力を集めていく、それがオバマ氏のパワーだと思います。

20日の就任演説が楽しみです。

さて、まったく関連のない今日のおススメCDです。今回はチェロです。ハンナ・チャンの『白鳥~チェロ名曲集』。ハンナ・チャン(Han-Na Chang)は、1982年韓国生まれの若いチェリストで、私の『Musicians from a Different Shore』に何カ所か登場します。彼女は、幼少のときに彼女のチェロの勉強をジュリアードでさせるために、両親ともども韓国からアメリカに移民してきた(こういう移民のパターンは、とくに韓国人家族のなかに多いのです)後、11歳にしてロストロッポヴィッチ・チェロ・コンクールで優勝し、世界にデビューしたという天才少女です。とはいえ彼女はもう20代後半ですから「少女」ではなく、精神的にも音楽的にも成熟した立派な大人の音楽家です。演奏活動をしながらハーヴァードで哲学を勉強している彼女は、他の音楽家たちと比べても、音楽とアイデンティティ、文化、歴史などといったことについてとりわけ深い思索をしているのが、私のインタビューでも明らかでした。たくさんCDがあるなか、これはチェロのレパートリーのなかでは代表的な名曲を集めたものですが、とても深みがある演奏で、おススメです。