2009年1月25日日曜日

『ユリイカ』「日本語は亡びるのか?」特集

雑誌『ユリイカ』の、「日本語は亡びるのか?」という特集が本日発売になりました。言うまでもなく、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』についての特集で、水村さん自身のインタビューもあり、他には蓮実重彦、前田塁、巽孝之、四方田犬彦など、立派な顔ぶれの特集です。それに混じって、私の「『普遍』と『固有』の翻訳としての文学と学問」という文章が入っています。私は、水村さんが論じていることの本質は、英語や日本語云々ということよりも、知識人が書き言葉を使って「現実」を表象するにあたって、「普遍」と「固有」の関係にどのように向き合っていくか、という問題にあると思っています。水村さん自身の小説がどのようにその問題に取り組んでいるか、そして、学問が「文学の言語」と生産的な緊張関係をもっていくためには、学問がどんなことをしていかなければいけないか、といったことに焦点を絞って書きました。かなり気合いを入れて書いたつもりです。前からこのブログを読んでくださっているかたは、あまりにもしつこく私が水村さんに言及するのでうんざりしているかも知れませんが、私は水村さんがこの本で提言していることは本当に重要なことだと思うので、是非とも『日本語が亡びるとき』と『ユリイカ』の両方、読んでみてください。

『日本語が亡びるとき』についてはインターネットをはじめいろんなところでいろんな人が議論していますが、どうもピントがずれた話が多いです。水村さんの文章はとても論理的で明晰かつ美しいのに、なぜその論旨を正確に理解する人がこんなに少ないんだろうと不思議に思います。論理的に書かれた日本語の文章をきちんと理解できる人が少ないということ自体が、水村さんの憂いを証明していると思います。で、しつこいですがもう一度だけ、私がもっとも重要だと考える(そして『ユリイカ』で私が書いていることにもっとも直接関係する)論旨をここで繰り返しておきます。(本当はこの要約を『ユリイカ』の文章のなかにも入れたかったのですが、紙面の制限でやむなく削除になりました。)

急速に押し進められていった国家主導の「近代化」という歴史的状況 のなかで、夏目漱石を初めとする明治期の「叡智を求める人」たちは、「西洋近代」と「日本」、そして「普遍」と「固有」のあいだの不均衡な力関係に、正面から対峙せざるをえなかった。その状況に立ち向かう彼らは、「普遍的」で「世界性」のある主題に取り組み、それと同時に、「西洋の衝撃」やそれが生んださまざまな精神的曲折、そして日常生活の微細な出来事を含む、日本固有の「現実」を描こうとした。その過程で、「普遍語」の翻訳として創られた「学問の言葉」がそうした日本固有の現実を表象できないと認識した彼らは、 漢文に始まって、ひらがな文、漢字カタカナ混じり文を経由し、言文一致体や文語体という、複雑多様な幾層もの形式によって織り成された日本語という言葉、そして日本文学の伝統や小説という芸術形式に真剣に向き合った。そして、 いっぽうでは「普遍語」を日本の言語に翻訳し、またいっぽうでは「現地語」でしかなかった日本語をより普遍な言語に翻訳することで、書き言葉としての日本語を「国語」として昇華させ、 「日本近代文学」を生んだ。そうすることで、「国語」で書かれた「文学の言葉」が「学問の言葉」を超越し、美的にも知的にも倫理的にも最高のものを目指す言語となった。
ヨーロッパ帝国主義の時代からアメリカの覇権の時代を経て、そしてインターネット文化が代表するグローバリゼーションが進む過程で、英語は、他の「国語」とは性質を異にする「普遍語」としての位置と影響力をもつようになった。英語を母語とする人の言語というだけでなく、世界中で様々な言語を使っている人々同士が抽象的・普遍的なことを表現伝達するために使う、「普遍的」な言語となったのである。この過程で、「普遍語」としての英語と、日本語を初めとする多くの「国語」のあいだの不均衡な関係は強まるいっぽうである。その結果、より多くの「叡智を求める人」は英語で「現実」を表象するようになる。そのこと自体は、必然的な歴史の流れであろう。
しかし、現代の日本に固有の「現実」を表象するためには、その現実を生み出してきた文化的精神的歴史をふまえた上で、その固有性にもっともふさわしい言語形式を模索しなければいけない。そうした言語活動こそが文学者の仕事である。「叡智を求める人」がそうした固有の言語の創作に携わらなくなれば、「日本文学」という言語の営みは亡びていくのではないか。


『ユリイカ』は大きめの書店でないと並んでないかもしれないので、アマゾンその他で買うのがいいかもしれません。というわけで、どうぞよろしく。