2010年12月30日木曜日

Black Swan & The King's Speech

ハワイ時間ではまだ30日ですが、日本ではすでに大晦日ですね。アメリカの大晦日と元旦は、日本とは似ても似つかない雰囲気で、大晦日の夜中は花火で大騒ぎ、元旦は休日という以外にはなんということもない普通の日です。ハワイでは、海辺の公園で打ち上げられる大型花火の他に、一般の人たちが庭や道路で花火や爆竹をするので、夜はたいへんな騒ぎで、窓を閉めていても煙が入ってくるくらいで、とてもゆっくり眠れたものではありません。これはこれで、ひとつの風物詩です。

さて、私は2009年から2010にかけて一年間、実にひさしぶりの日本生活を経験しましたが、2011年を迎えてから数日後に日本に帰り、再び半年強にわたり日本で暮らします。今回はサバティカルなので授業などの義務がなく、自分の研究に専念できるのと、前回の町田市小山田桜台での暮らしとは打って変わって千代田区民になるのとで、前回とはずいぶん違った生活になりそうです。今は、出発に向けて再び家の掃除(アメリカではサバティカル中の研究者が別の街で半年や一年間暮らすというのはよくあることなので、サバティカルの人が家財道具や日用品などはそのままで家を貸したり交換したりというのは一般的で、そうした情報交換のためのSabbaticalHomes.comというウェブサイトまであります。今回は私もこのサイトを使って我が家を借りてくれる人を見つけました)や荷作りをしているところですが、日本に行く前に観ておこうと思っていた映画を昨日と今日たて続けに観てきました。

去年と今年、日本とアメリカを比較して気づいたことのひとつは、映画というものが文化において占める位置が日米ではずいぶん違うということ。私は日本に住んだ一年間で、知人友人と映画の話題になったことがほとんどありません。もちろん、積極的に映画が好きだという人とは、一緒に観に行ったり映画の話をしたりしますし、なにしろ日本にはオタク文化があるので映画通を誇る人たちは底知れない知識をもっているのはわかっていますが、そうでない、「普通の人」同士が映画の話題で盛り上がるという場面に、私はほとんど遭遇しませんでした。サラリーマンは仕事が忙しく、主婦は子育て忙しくて、映画に行くような時間がないのだ、という説明もありますが、そういう忙しい人たちでも本当に自分がやりたいことについては無理にでも時間を作ってやるわけですから、それで説明しきれるとはちょっと思えない。日本は映画館で普通料金を払って映画を観るには1800円もする(アメリカでは地域によって値段は違いますが、ハワイでは普通料金は10ドル強、マチねなら8ドル強です)、というのも一要素としてあると思いますが、もっとずっと高い娯楽にお金を出す人たちはたくさんいるので、それもあまり説明になっていない。やはり、映画を観に行くということがそれほど一般的でないのだと思います。私がブログでときどき映画の話題について書くので、私のことを「映画が好きな人」だと思っている人が結構いるようですが、私はもちろん映画は嫌いではないものの、話題になっているもののうちで自分が興味のあるものを観に行ったりDVDで観たりするくらいで、アメリカの文脈では「映画好き」の部類にはまるで入らず、私の社交サークルのなかでは、私の映画についての知識は平均以下だと思います。こちらでは、日常会話において映画の話題になることはよくあるし、現在上映中の映画については、内容やら監督やら俳優やらについて、その映画を観ていない人でもよく知っています。DVDやインターネットで映画が簡単に観られるようになって、映画館に行く人が減っているのはアメリカも同じですが、それでもやはり、アメリカのほうが映画というものが一般の人たちの日常生活に溶け込んでいるような気がします。

で、今回観たのは、Darren Aronofsky監督のBlack Swanと、Tom Hooper監督のThe King's Speech。Black Swanは昨日のマチネで観たのですが、水曜の昼間に観るにはまったく不適切な映画でした(笑)。でもそのいっぽうで、この映画を夜に観ていたら、眠れなくなっていたと思うので、昼間に観たのは正解だったかも知れません。レビューを読んでから観たので驚きはしなかったものの、想像していたよりもどぎつい映画でした。バレエの「白鳥の湖」を舞台にした物語、には違いないのですが、その響きとは裏腹に、たいへんダークな心理スリラーです。なかなか面白かったけれど、私は思わず手で目を覆ってしまう場面もいくつかあり。心理描写として監督の目指していることはわかるけれども、あそこまでやる必要もないんじゃないかという気もしました。でも、ナタリー・ポートマンの演技はなかなか素晴らしいです。今さっとネットで検索したかぎりでは、この映画の日本公開についての情報は見当たりませんでしたが、もうちょっと時間がたってから公開されるかもしれません。

そして、先ほど、The King's Speechを観てきました。こちらは2月末から日本でも公開されるようです。これは素晴らしかったので、おすすめです。物語の主人公は、エリザベス女王の父親、英国王ジョージ6世。家族に「バーティ」の名で呼ばれていた彼は、幼少の頃から吃音に悩み、公共の場やラジオ放送で演説をしなければいけないときは、世界に恥をさらす経験を繰り返していた。その彼が、王として国を象徴し国民に語りかけなければいけない立場に立ち、しかもその後間もなく、イギリスはナチス・ドイツと開戦となる。そのジョージ6世が言語障害を克服する導き手となったスピーチ・セラピストと王の関係を追った物語です。ジョージ6世を演じるのはコーリン・ファース、スピーチ・セラピストを演じるのはジェフリー・ラッシュで、なんとも迫力と味のあるコンビネーションになっています。吃音や発話ということについても深く考えさせられますが、そうしたことを超えて、人それぞれが抱えているもの、背負っているものについて、たとえひとりでも、耳を傾けて理解し共感してくれる人物がその人の人生に存在するということが、どれだけ大事なことか、ということについて、静かに教えてくれる映画です。雅子さまにもこの「ライオネル」のような人物が存在すればいいのになあ、などと思ってしまいます。

2010年12月24日金曜日

22丁目のサンタ・クロース

アメリカでクリスマス・シーズンを過ごすようになって20年ほどになります。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたように、アメリカでのクリスマス・シーズンというのは実に複雑な感情を引き起こすもので、クリスチャンでもなければクリスマスを一緒に過ごす家族がいるわけでもない私も、年によっていろいろ違った気分になります。自分には直接関係なくても、恵みの心が溢れる周りの雰囲気に心温まる気分になることもあれば、普段は多様性を声高に唱えている人たちも急に一転してクリスマス文化に染まってしまうことに納得のいかない思いを感じることもあれば、「我が家はクリスチャンじゃないからクリスマスはしない」と言ってクリスマス文化から距離を置く人たちがちゃんと存在することに安心感を覚えることもあります。去年、ひさしぶりに日本でクリスマス・シーズンを過ごしたときには、宗教や文化とみごとになんのつながりもない徹底した商業主義のクリスマス(アメリカのクリスマスも商業主義に踊らされていると批判する人たちがたくさんいますし、実際多くの商店ではこのシーズンが年内最大の売り上げ期なので、商業主義の要素が強いことには違いありませんが、少なくともアメリカでは、人口の多数がクリスチャンであり、クリスマスは家族と過ごし人々にプレゼントをするという文化や伝統があるのがやはり日本とは大きく違います)に、一種の解放感を覚えると同時に、なんだかしらけた気分になったものです。今年は、ハワイで親しくしている友達の多くが、アメリカ本土や国外の家族のところに出かけてしまっていないのですが、クリスマス当日は数人の友達と集まる予定です。ハワイにいると、クリスマスも半袖で過ごすので、なんとも不思議な気分ですが。

さて、今日のニューヨーク・タイムズに掲載されているクリスマス関連のビデオに、なんだか心打たれてしまいましたのでご紹介します。マンハッタンの西22丁目、チェルシーという、ゲイの人たちが多く住んでいるお洒落なエリアのあるアパートに住むふたりのもとに、あるときから「サンタ・クロースへ」という宛名の手紙がたくさん届くようになりました。普通のアパートの7号室という、なんの変哲もない住所に、なぜサンタ宛の手紙が届くようになったのか、受け取ったふたりはさっぱりわからず、なにかのいたずらか、あるいは自分たちの住所がどこかのチャリティ団体の住所と似ていて間違われているのか、なにかの間違いでどこかの学校で先生が子供たちにこの住所を教えたのか、などといろいろ考えてみたもののやはり理由はわからないまま。ここで、多くの人だったら、気味悪がって、郵便局や警察(?)に相談するとか、なぜ自分のところに手紙が届くのかを突き止めようとする(手紙の差出人に連絡をとって、なぜこの住所に手紙を送ったのか問い合わせればいいわけですから、そんなに難しいはずはない)とかするでしょうが、そうでないのがこの話のよいところ。ついには何百通にもなった手紙に、受け取ったふたりはすべて目を通し、手書きで書かれた子供たちの真摯なお願いに心打たれます。親が困窮していて今年はプレゼントを買えないので、妹のためにプレゼントを送ってほしい、といった類のメッセージから、ごく普通のお願いまでいろいろですが、受け取ったふたりは、これらの手紙を自分の家に積んだままでクリスマスを迎えるのは気がすまない、かといって何百人もの人たちのお願いを自分たちがかなえるわけにはいかない、それと同時に、数人だけを選んでお願いをかなえるのも理不尽な気がする...そこでふたりは、自分たちの手元にある手紙を同僚や友人知人のところにもっていき、各人にひとつのお願いをかなえてもらう、つまり、差出人の住所にその人がほしいと思っているプレゼントを送ってもらう、ということを思いつきます。サンタになってくれる人をFacebookを通じて募集もします。年末の忙しい時期に、何百人もの見も知らぬ人から訳もわからず送られてきたサンタへのお願いをなんとかかなえてあげようと、せっせとサンタを探すこのふたりもすごいですが、「いいよ」と言って快く引き受ける友人知人が何百人もいるのもすごい。このあたりに、アメリカの人たちのおおらかさ、懐の深さ、そしてよい意味でのクリスマス精神を見る気がします。このビデオからは、このふたりのあいだの愛情も伝わってきて、なんだか不思議な感動がありますので、見てみてください。

2010年12月23日木曜日

When the Levees Broke

DVDで、スパイク・リー監督の四話にわたるドキュメンタリー映画、When the Levees Brokeを観ました。タイトルを直訳すれば「堤防が崩れたとき」。2005年夏にルイジアナ州ニューオーリーンズ周辺を襲ったハリケーン・カトリナ(『現代アメリカのキーワード 』に項目があります)についてのドキュメンタリーなのですが、これはすごい。カトリーナの災害は、ハリケーンそのものによる自然災害もさることながら、人種を軸に地域内に極端な社会格差を生んできた南部都市の歴史的背景、連邦政府を筆頭にする各種公的機関の対応のひどさといった、社会によって作られた人的災害という側面が大きかったことは指摘されてきましたが、このドキュメンタリーはそれを実に説得力をもって示しています。当時のニュースに使われた映像や写真を織り交ぜながら、ハリケーンの被害者となった数多くの市民たち、救出隊員、ニューオーリーンズ市長、ルイジアナ州知事、土木工学のエンジニア、ジャーナリスト、歴史家など、たくさんの人たちのインタビューを集め、ナレーションもなく淡々とした作りでありながら、強烈なメッセージが伝わってきます。ハリケーン地帯であるこのエリアでは、堤防がじゅうぶんな強度をもっていないこともわかっていたにもかかわらず、補強がされないままだったこと。いかなる威力をもってハリケーン迫っているかも警告されていたにもかかわらず、多くの人々が避難できない状態で残されたこと。実際にハリケーンが襲い数多くの死者や負傷者が出て、また何万人もの人が住居を失った後でも、連邦緊急事態管理庁(FEMA)をはじめとする連邦機関は何日間も対応をしなかったこと。そして、ハリケーン後数カ月たっても人々が生活を再開できるための手助けが届いていない(この映画が公開されたのは2006年)ということ。その背景に、人種と階層が否定しがたく結びついているということ。そうしたことが、多様な人々の姿と話から伝わってくるのですが、それと同時に、ジャズやマルディグラに代表される黒人文化やクレオール文化がニューオーリーンズ特有の歴史文化を形づくってきて、人々がその街に誇りをもってしがみついてでもそこで暮らし続けようとしていること、大切に築いてきた街が跡形もなく戦場のようになってしまった後でも自分たちの文化と暮らしを再開しようとするそのエネルギーに、圧倒されます。出てくる人たちの実に多様な姿を見るだけでも、アメリカについてたくさんのことを学ぶことができます。日本では、インポート版のDVDしか手に入らないようですが、見る価値はおおいにあるので、ぜひどうぞ。

2010年12月20日月曜日

ウガンダの反同性愛風潮高まる

ウガンダで、同性愛者に死刑もしくは終身刑を課し、同性愛者を手助けしたり保護したりした人も投獄するといった極端な反同性愛者法案が議会に提出されたことはほぼ一年前に書きました。国際的に強い抗議の声があがっているため、死刑にかんする部分は除外される可能性はあるものの、この法案は来年早々にも討議される予定で、議員の多数は法案を支持しているとも言われています。そうしたなかで、ウガンダ社会における反同性愛者の風潮は高まっており、同性愛者に対する暴力行為も増えているそうです。10月には、『ローリング・ストーン』(アメリカの同名の雑誌とは無関係)というタブロイド紙が、「ウガンダのホモ百人の写真暴露」という記事を掲載し、「処刑しろ」といった言葉とともに、同性愛者百人の名前、顔写真、住所、頻繁に訪れる場所などを公開。このリストに載せられた結果、脅迫文を受け取ったり実際の暴力を受けた人も出ている。火曜日には、同紙が同性愛者の名前を掲載し続けてよいかどうか、判事が判決をくだすそうですが、当然ながら同性愛者たちのあいだには大きな恐怖が広まっているそうです。

ウガンダに限らず、アフリカでは同性愛者に対する偏見や差別の強い国が多いものの、ウガンダの場合は、アメリカの一部の福音主義キリスト教会が絡んでいるらしいというのがさらに問題。こうした一部の団体のメンバーが、「同性愛運動とは巨悪な運動で、結婚に基づいた社会を性的乱交を讃える社会に変えようとするものである」「同性愛とは倒錯した病気であり、治癒できるものである」などといったメッセージをウガンダで布教し、その後まもなくウガンダでの反同性愛運動がさらに高まり死刑法案にいたっている、という背景があります。アメリカの多くの福音主義協会や団体は、こうした運動から距離を置いているものの、「ドント・アスク、ドント・テル」撤回が示す社会の流れとはまったく別の動きもアメリカ国内に確固として存在し、それがこのように国際的に影響をもっているということも、忘れられません。

2010年12月19日日曜日

世界の児童労働の産物

「ドント・アスク、ドント・テル」撤回のニュースは、国内はもちろん、世界各地に派遣されている米軍兵士たちのあいだで大きな反響をもって迎えられています。これまで、危険に身をさらしながら寝食を共にする仲間たちに自分のアイデンティティを隠し、ゲイである(のではないか)という理由で職場で差別を受けても抗議することができなかった人たちや、そうした環境で仕事をすることに訣別してそれまで積み上げてきた実績を後に退職した人たち、また、さまざまな理由で軍への志願を強く望んでいながらもゲイであるがゆえにそれを断念していた人たちにとって、これがどれだけ大きな意味をもつかが伝わってきます。もちろん、世界における米軍の役割や軍事外交のありかたについての問題はまったく別で、同性愛者たちのあいだでも、「軍に志願したいなんていうバカなゲイがいるんだったら、そうする権利が与えられるべきだ」といったコメントをしている人もいます。

さて、先月ハワイで結婚式を挙げた友人の新妻が、もと連邦労働省で仕事をしていた人であることは書きましたが、彼女はとくに児童労働や人身売買の規制が専門。その彼女がFacebookを通じて送ってくれた記事がこれ。世界の児童労働について連邦労働省が最近まとめたデータをもとに、もっとも搾取的な児童労働や強制労働(奴隷制やそれに類似する状況での労働)によって作られている(収穫も含む)産物のリスト。それらがどういった国で作られているかも載っています。搾取的児童労働がもっとも使用されているのは、農業、サービス業、そして工業だそうですが、13のアイテムのトップは金で、アフリカや中南米、北朝鮮などで児童・強制労働により採取されているとのこと。次いで2位は、綿で、産出国は、アルゼンチン、アゼルバイジャン、ベニン、ブラジル、ブルキナ・ファソ、中国、エジプト、カザキスタン、キルギス共和国、パキスタン、パラグアイ、タジキスタン、トルコ、トルクメニスタン、ウズベキスタン、ザンビア。3位は、かつてはハワイの主要産業であった、サトウキビ。今では中南米や東南アジアが主要産出国となっています。残りのリストは以下の通り。簡単に予想できるものもあれば、(少なくとも私にとっては)そうでもないものもあります。

1 金
2 綿
3 サトウキビ
4 タバコ
5 レンガ
6 コーヒー
7 牛
8 米
9 衣類 
10 ダイアモンド
11 石炭 
12 ココア
13 カーペット

2010年12月18日土曜日

「ドント・アスク、ドント・テル」撤回

1993年クリントン政権下、軍隊内での同性愛行為を禁じると同時に、兵士が同性愛者であることをみずから公表しない限りは、軍当局は兵士の性的指向を捜査しないことを定めた、通称「ドント・アスク、ドント・テル」法(『現代アメリカのキーワード 』にエントリーがありますので参考にしてください)は、政府による同性愛者に対する差別であるとして、長いあいだ抗議が続けられてきましたが、今日、この方針を撤回する法案が、連邦上院で65対31で可決されました。これは、同性愛者の活動家たちにとってきわめて大きな第一歩で、軍隊における人種差別や隔離を廃止したのと同等の意義があるという人たちもいます。「ドント・アスク、ドント・テル」撤回運動のリーダーとなってきたコネティカットの上院議員ジョセフ・リーバーマン氏は、他の分野での保守的政策によりこれまで民主党左派からはさまざまな批判にあってきたものの、この撤回を実現に導いたことでおおいに名誉挽回となりました。

「ドント・アスク、ドント・テル」撤回を支持する議員たちは、命をかけてまで国に奉仕しようと志願する人たちに、自分たちのアイデンティティについて嘘をつくことを強いたり、性的指向を理由に除隊させたりする(「ドント・アスク、ドント・テル」法の下で、実際に14000人の兵士が性的指向を理由に除隊となったと言われています)ことは、同性愛者に対する差別であるばかりでなく、軍の精神に反するものであり、また、重要な人材を無駄にすることで軍事力低下にもつながっていると主張してきました。さらに、性的指向と部隊の有効性は無関係であるばかりか、兵士の何人かが同性愛者であるということを他の兵士たちが了承している部隊のほうが、そうでない部隊よりも結束が強く実績も高いという調査もあるくらいで、国防長官ゲイツ氏をはじめ、軍の指導者たちの多くも、「ドント・アスク、ドント・テル」撤回を支持してきました。それに対し、元大統領候補のジョン・マケイン氏を含む、撤回に反対する議員たちは、撤回によって部隊の結束が揺らぎ、戦場における効果的な軍事力の動員を低下させ、また、一部の市民が軍に志願するのを妨げる要因となり、現在米軍が戦争に携わっている状況のなかで「ドント・アスク、ドント・テル」を撤回するのは間違っている、と主張。

1月に共和党が下院の過半数を握り、上院でも民主党の影響力が低下する前に、なんとかこの撤回法案を通過させたことは、民主党の大きな実績となりました。Facebookでも、今日は私の「友達」の大勢がこのニュースについての投稿をして大喜びしています。

2010年12月12日日曜日

デジタル時代の雑誌

今日はホノルル・マラソン。去年よりは参加者の数がやや減少したとはいうものの、23,000人弱の人たちが朝5時のスタートを切りました。私はもちろん走りませんが、私のピアノの先生や、オレゴンに住んでいる友達夫婦が、この日のためにせっせとトレーニングをしていて、昨日は一緒にコースの一部を車で走ってチェックしたりもしたので、なんだか私まで興奮・緊張して、夜はよく眠れませんでした(その気になりやすい性格)。なんと日曜だというのに朝の9時から大学で会議があったため、友達をゴールで迎えることができず、会議が始まる前に沿道で応援に行こうと思っても、その時間帯に通るエリアは道路が通行止めになってどう考えてもそこに自分が行き着けない(その先に住んでいる同僚は、通行止めのため会議に来ることができず、車で15分のところに住んでいるにもかかわらずスカイプで会議に参加したという滑稽な事態でした)ので断念。でも、各参加者が10キロごとの地点を何分で通過したということをネットでチェックできるので、ほぼ1時間ごとに彼らの進み具合を確認。初めてのマラソンだというのにかなりいいタイムで完走したことを確認したときには、思わずコンピューターの画面を前にひとりで拍手してしまいました。

というわけで、やはりインターネットというのは便利なものですが、今日のニューヨーク・タイムズに、紙の新聞や雑誌が次々と廃れていくなかで、デジタル化の波にうまく乗ることで大きな赤字を黒字に転じ大幅に収益をあげた『アトランティック』誌についての記事があります。『アトランティック』誌は、153年間も続いている老舗の権威ある知的な雑誌で、『ニューヨーカー』や『ハーパーズ』と同じように、著者にとってはこの雑誌に記事が掲載されればたいへんな名誉だし、読者にとってはこの雑誌に目を通していることが一種の知性の象徴となるような媒体。知的な意味での評判はつねに高かったにもかかわらず、ビジネスとしてはおおいに苦戦し、David Bradley氏が同誌を買い取った1999年に450万ドル落ちた収益がその後の数年間でさらに落ち続けました。たいていの媒体ならそのまま下降を続けて倒産に至るところでしょうが、ここで『アトランティック』の巻き返しに決定的な役割を果たしたのが、ニューヨーク・タイムズ紙からJames Bennettという人物を引き抜き編集者にしたこと。Bennett氏のもとで、『アトランティック』は雑誌という紙の媒体のありかたを大きく考え直し、編集・営業の両方において紙とデジタル部門の垣根をなくし、若い編集者を多数採用した結果、2005年には収益が倍増、そのうちの約半分が広告収入で、広告収入のうちの40%がデジタル広告だそうです。素人にはこの数字の意味はわかりにくいですが、雑誌業界では広告収入の40%がデジタルというのは驚異的な数字らしい。

私も、キンドルを購入して以来、愛読誌の『ニューヨーカー』はキンドルで読んでいます。『ニューヨーカー』は毎号の表紙のデザインも紙質も独特で、紙の形態には愛着があるのですが、紙の雑誌だと、どうしても読まないまま数カ月ぶんが積ん読になってしまうことが多く、読みたいと思う記事でも結局読まないまま雑誌ごとゴミ箱行きになってしまいがち。読んだ記事でも、面白いと思ったものをいちいち切り抜いてファイルするなどというマメなことはめったにしないので、「いつかあのへんで読んだ」といった記事も記憶の彼方にいってしまう。それに対して、キンドルだと、過去の号も空間をとることなく全部アーカイブしておけるし、検索しやすい。といった点で、やはり電子版はとても便利。新聞や雑誌がジャーナリズムや言論活動の場として21世紀に力を発揮しつづけていくためには、良質なコンテンツへのコミットメントを続けると同時に、デジタル媒体の有効な使い方を模索していくことが大事だと、あらためて認識。

2010年12月10日金曜日

奴隷制地図

一昨日は、我が家の洗濯機兼乾燥機(たいていアメリカの家庭では驚くほど大きな洗濯機と乾燥機が並べてありますが、私のマンションは場所が限られているため、キッチンをリフォームするときに洗濯・乾燥が一台でできる韓国製のこじんまりとしたものに買い替えました)が不調なため修理に来てもらったのですが、「午後一時から三時のあいだに来る」とのことだったのに、実際に修理工さんが現れたのは五時四十分というあたり、いかにもアメリカ的。こうした点ではまだ日本的な感覚の残っている私は、大いにイライラしてしまうのですが、現れた修理工さんがなかなか感じのいい人だったので、簡単に機嫌を直してしまう私。ハワイでは、こうした熟練ブルーカラーの職業についている人は、アジアからの移民であることが多いのですが、今回の修理工さんもベトナム人の男性でした。電話の応対は奥さんがやり、修理自体は彼がすべてひとりで請け負い、島じゅうどこにでも出かけていく。そもそも私は、機械の修理などといったことについては自分がまったくの無能なので、即座に問題をつきとめてきぱきと機械を分解して直す様子を見ているだけで、深く感服してパチパチと拍手してしまうのですが、移民の人たちがこうやって技術を身につけ、小ビジネスを起業し、腕ひとつでこつこつと社会の階段を昇っていくというのが、たいへんアメリカ的で、私は素直に感動します。

さて、まるで関係ないですが、ニューヨーク・タイムズに載っている、Visualizing Slavery、つまり「奴隷制を視覚化する」という記事がなかなか面白く、私は貴重な午前中の時間をかなりこのサイトで遊ぶことに使ってしまいました。米連邦政府が国勢調査で南部の奴隷の数を最後に記録したのが1860年。その数カ月後に、海岸線の調査をする政府機関が、国勢調査のデータをもとに、奴隷の分布を視覚的に示した地図を制作したのですが、ひとくちに南部といっても奴隷の分布はなかなか複雑で、奴隷制と南北戦争の展開とが密接に結びついている(当たり前のようでいて、実際はなかなか複雑)ということがよくわかる。この地図で示されていることが、連邦側の戦略にどのように使われたかということもよくわかるし、この地図自体が奴隷制解放に至る過程で果たした役割も説明されていて、なかなか面白い(この記事に使われている、リンカーンその他を描いた絵の上でカーソルを移動すると絵の細部が見られます。これだけでも私なぞは子供のように喜んでしまう)。なんといっても、こうした視覚資料をニューヨーク・タイムズがネット上でこうした形で使うというのが面白い。

私は最近、さまざまな視覚資料を研究や教育活動のために無料で提供しているARTstorというデータベースがたいへん気に入って(ARTstorのメンバーになっている大学や美術館などに所属している人でないとブラウズできないようです、あしからず)、これまた何時間もこれで遊んで時間を使ってしまうのですが、資料のデジタル化というのは本当にすごいものです。大学院生の頃、図書館でNew York Times Indexという、ニューヨーク・タイムズの過去の記事を各年ごとにすべて項目化した分厚い本を、一冊一冊辛抱強く調べていった頃のことを考えると、リサーチというものの性質がまったく変化したのを実感します。せっかちな性格の私がよくもまああんな地道な作業をやっていたものです。

2010年12月8日水曜日

オバマ政権、高所得者層への減税策延長

ミドルクラス層のための減税や失業者への手当の延長と引き換えに、ブッシュ政権下に施行された高所得者層への減税策を2年間延長する、というオバマ大統領の案に、多くの民主党議員そしてオバマ大統領を支持してきた国民の多くが、大きな落胆と憤りを示しています。私自身も、いくらオバマ大統領のビジョンが正しくても政治プロセスというのは複雑なものだし、ここまで悪くなった経済というのは急によくなるものではないしと、さまざまな点において譲歩や妥協を強いられてきたオバマ政権に対し、辛抱と期待をもち続けてきましたが、これはさすがにイカン。高所得者層への減税延長は、民主党が綱領として掲げてきた理念の根本を揺るがすもので、ミドルクラスの各家庭にせいぜい数千ドルにしかならない減税と引き換えに、億万長者たちに巨額の減税を提供し続けるというのは、どう考えてもおかしい。この政策を正当化するのは、高所得者層への減税を延長することは景気対策になり、また、これと引き換えに、ミドルクラスや失業者への支援が手に入れられるのならば、今の現実において多くの国民を支援することになる、という理屈らしいけれども、この減税策で得をする高所得者層は、それで節約できるぶんのお金を、ものを買ったり人を雇ったりすることに使うわけではなく(もちろんそれもするでしょうが)、その財産をより増やすための資産運用に使う可能性が高いわけで、それが国民の生活や経済全体に直接及ぼす影響というのは比較的少ないはず。高所得者層への減税をやめて、財政赤字を減らし、手元のお金は日常的な出費にまわすミドルクラスにより多くの現金がまわるようにすれば、景気が向上するはず。というのは、数字に弱く経済に疎い私が単純に思うことですが、こう思うのは私ばかりではないということが、この政策を強く批判するさまざまなメディアで明らか。なかでも、左派メディアの象徴とされているコメンテーターのKeith Olbermannのコメントは、その激しさと鋭さにおいて圧倒的。(こうしたネット上の動画は、アメリカの外では見られないことが多いので、日本の皆さんには見られないかもしれません。あしからず。)左派のオンライン・メディアのSalon.comに載っているブログ論説も興味深いです。

先月の選挙で上院の過半数が共和党にわたった結果、高所得者層への減税廃止案が上院を通過する見込みがなくなってしまったために、譲歩・妥協策としてオバマ大統領が共和党のリーダーたちとともにこの案を出したわけですが、これでは、なんのための民主党政権なのかわからなくなってしまう。いくら共和党に譲歩をしたところで、核となる共和党支持者層が民主党にまわるわけはなし、これによって民主党支持者がオバマ大統領から離れてしまったら、2012年のオバマ大統領再選は難しいのではないかと思われます。あー、本当に困ったことになってきました。

ここ2日間の話題は、これに加えて、昨日は民主党の元大統領候補、ジョン・エドワーズの妻、エリザベス・エドワーズが亡くなったというニュース。私は、選挙選の初期には、経済・社会政策においてエドワーズが一番よいと思っていましたが、妻ががんで闘病中の不倫騒ぎで彼の政治生命が終わってしまい、いろんな意味で悲しいやら呆れるやらでした。今回、エリザベス・エドワーズについての記事をいろいろ読んで、私はなんだか知り合いが亡くなったような悲しみを覚えています。

2010年12月7日火曜日

真珠湾攻撃の記憶ふたたび





忙しいときにはいろんなことが重なるもので、私の学部で採用する新任教員のポジションの公募の最終候補(サンアントニオの学会で面接をした人たちをさらに数人に絞ったもの)たちのキャンパス訪問の真っ最中に、日本から母と叔父が数日間やってきました。

『アメリカの大学院で成功する方法』でも説明していますが、大学教員のポジションの選考の最終段階であるキャンパス訪問というのは、いわゆる「面接」とは違って、たいていの場合、ほぼ2日間にわたり、候補者は、研究発表やら模擬授業やらに加えて、dean(日本語では「学部長」と訳すようですが、アメリカの大学は日本と組織が違うので、deanは学部長とは役割がずいぶんと違い、大学の運営者側に位置する人です)いろいろな教員や大学院生と会って話をしたり、食事の席で社交をしたりしなくてはいけません。食事のときの会話も、「この人とは同僚としてスムーズにやっていけるか」「自分の専門以外のことにも幅広く興味をもって積極的に仕事に取り組む人か」といった点においてけっこう重要な判断基準になるので、候補者は呑気にお酒を飲んで楽しんでばかりはいられない(かといって、あまり生真面目で退屈な人間だと思われるのもマイナスなので、一緒にいて楽しい人間であるということも示せなければいけない)し、採用するほうも、自分たちの学部が協調的で居心地のいい職場であるということをアピールしないといけないので、お互いなかなか大変です。今回は、ふたつのポジションの公募を同時に行っているので、2週間のあいだに5人の候補が次々と訪問し、こちらも5人それぞれと一度は食事に行かないといけないので、スケジュール調整だけでもけっこうややこしい。それでもやはり、とくに私のいるような小さな学部では、ひとりの教員だけでもかなり大きな変化をもたらすので、新任教員採用はとても重要なことで、みんな張り切ってのぞんでいます。最先端で研究をしていて教育にも熱意まんまんの若い人たち(と言ってしまうあたり、自分がオバサンであるのを実感)と話をするのはとても刺激的です。

母と叔父の訪問は、3泊だけの短いものでしたが(日本人にとっては3泊のハワイ旅行というのはそれほど珍しくないかもしれませんが、アメリカ人にとっては、わざわざ日本からハワイにやってくるのになぜそんなに短いあいだしかいないのか、まったく不可解らしく、私の友達は一人残らず、「なんでそんなに短いの?」と聞いていました)、短期間のあいだにけっこういろんなところを見て、なかなか楽しんでいたようでした。日本から来る人を案内するたびに、自分はもう慣れてしまってなんとも思わなくなったことについて、改めて新鮮な目で観察するようになるので、興味深いです。日本から来る人が例外なく驚くのが、レストランで出てくる食べ物の量の多さ(たしかに多い)と、身体の大きい人の桁外れの大きさ(たしかに大きい)です。

観光コースの一部として、パール・ハーバーにも行きました。行ったのは2日前ですが、今日は真珠湾攻撃69周年の日です。今朝は例年通り、真珠湾攻撃を体験した退役軍人たちやコミュニティの人々が出席する式典が行われましたが、とくに今年は、この日に合わせてアリゾナ記念館に新しい博物館がオープンし、その記念も合わせて行われました。私たちが行ったときは、まだ博物館が開いていなかったので新しい展示がどんなものだか私はまだ見ていませんが、真珠湾攻撃にいたるまでやその後の戦争の歴史、日系アメリカ人を含む当時のハワイの社会などについて、従来の展示よりもより複層的な視点から歴史を語った展示になると言われていたので、近いうちに見てくるつもりです。以前は、港からアリゾナ記念碑(沈没した戦艦アリゾナの上に建てられた記念碑まで、ボートに乗って行き、記念碑から海面を見下ろすと戦艦の一部が見え、ときには油が水面にあがってくるのも見える)に行くボートに乗っている最中も、日本人には居心地の悪い、ナショナリズムに満ちた解説が流れていましたが、今回はその解説もなくなっていました。もう解説はしないことにしたのか、それとも博物館オープンとともに新たな解説がなされるようになるのか、そのへんも次回行ったときに見てきます。多くの日本人の意識のなかでは、真珠湾攻撃というのは、広島や長崎、あるいは沖縄戦と比べると、小さな位置を占めていると思われますが、パール・ハーバーはハワイの最大の観光スポットのひとつであり、真珠湾攻撃を体験した生存者が年々少なくなっていく現在でもこうして毎年式典が行われ、多額の資金をかけて博物館がリニューアルされるということを考えると、アメリカ人の歴史観のなかで真珠湾攻撃がいかに大きなものかということが認識されます。そうした歴史観の差異を理解するだけでも、とても重要なことだと思います。

2010年11月20日土曜日

サンアントニオにて

American Studies Associationという、私がほぼ毎年参加する学会があるので、2日前より、テキサスのサンアントニオという街に来ています。今年は私の所属する学部がふたり新任教員(ひとつのポジションは、映画/メディア研究、もうひとつは先住民研究)を採用するので、その候補者たちの面接をこの会場でしており、今回は私は正式には採用チームに入っていないのですが、新任教員の採用は学部にとってもっとも重要な出来事なので、時間の許すかぎり面接に立ち会っています。というわけで、昨日は一日じゅう面接室に缶詰で、せっかく学会に来ているのにまだひとつも研究発表を聞きに行っていません。

それでも、新任教員採用の面接というのは、学会での研究発表を聞くのと同じくらい、あるいはそれ以上に、採用するほうにとっては刺激的です。若い(アメリカではさまざまな経路をたどっている人が多いので、年齢はそれほど若くない候補者もいますが、研究者のキャリアとしては若い)研究者たち、しかも書類選考を通るような優秀な研究者たち(あまり具体的なことは公表できませんが、今回の我々のふたつのポジションは、それぞれゆうに百倍以上の競争率です)と会い、1時間にわたって研究の内容や授業についてのアイデア(日本の大学の採用面接を受けたことがないのでわかりませんが、こちらでは授業や個人指導など、「教える」ことにまつわる会話が面接のなかでかなり大きな部分を占めます)を聞くのは、とても興味深く、勉強になります。この人たちが、いうなれば分野でもっとも新しいことをやっている人たちなわけですから、刺激的なのは当然といえば当然ですが、博士号をとった人たちの就職難が嘆かれて久しいこの世の中で、これだけたくさんの人たちが研究の世界に身を投じ、面白い仕事をしていること、そしてまた、学術研究をつうじて社会をよくしようと真剣に考えている人、そして実際に大学とさまざまなコミュニティを結ぶさまざまな活動に献身している人たちを前にすると、非常に謙虚な気持ちになります。

学会は、サンアントニオのグランド・ハイアットとその隣のコンヴェンション・センターで開催されているのですが、このグランド・ハイアットは現在労働争議中。もっと早くこの状態がわかっていれば、会場変更もありえたのですが、スケジュール的にそれが無理だったため、学会は予定通り行われていますが、昨日の夕方は、学会のメンバーがホテルの従業員への支持を表明し、経営者側に従業員に正当な労働条件を提供することを要求する集会が、ホテル前で行われました。私は面接の最中だったので参加できませんでしたが、私の友達はみな参加し、かなり盛況だったと言っていました。こうしたシンボリックな行動がどれだけ実際の効果をもつかは不明ですが、このように、学会が現実の社会にさまざまな形で関わっていくというのは、実にアメリカ的だと思います。

サンアントニオは、アラモ砦のある街で、歴史的にもなかなか面白いです。サンアントニオ出身の友達がいるので、今日の夕方は少し街を案内してもらう予定です。

2010年11月15日月曜日

議会図書館にて

昨日、ニューヨークからワシントンにやって来ました。アムトラックの列車は、途中までは順調に走っていたのですが、ボルティモアの駅でエンジン不調によりしばらく停車し、結局一時間遅れてワシントンに到着。やはり。私はアムトラックの列車はけっこう快適で好きなのですが、なぜこうも遅れるかというくらいしょっちゅう遅れるのが難点。

ワシントンは、列車の駅を一歩出ただけでも、ニューヨークとはまるっきり違う街であるのが明らか。議事堂や主要な記念碑やら一連のスミソニアン博物館やらのある地域は、いちいち建物が白い大理石でやたらとデカく、荘厳というよりはいかつい雰囲気で、合衆国の偉大さを誇示しているのですが、私などは建物を見ているだけで圧倒されてげんなりしてしまいます。そのいっぽうで、ワシントンに典型的なrow houseと呼ばれる長屋風の住宅建築は、こじんまりとしながらなかなか風情があって、私は好きです。私が泊めてもらっている友達夫婦の家は、ユニオン・ステーション(列車の駅)から歩いて数ブロックのところにあるのですが、議事堂からも歩いて行ける距離で、趣味のいい住宅が並んでいるエリアであると同時に、麻薬ディーラーが行き交い泥棒もよく入るという状況で、首都ワシントンの光と陰を象徴しているようです。そのいっぽうで、私は前からこれを感じていたのですが、ワシントンの街を歩いていると、駐車場のスタッフやら工事のおじさんやらに始まって、いろんな人にやたらと声をかけられる。ニューヨークにも独特の他人との境界の低さがありますが、ワシントンにはそれとは違った、南部風のフレンドリーさがあるように思います。

今日は一日、議会図書館でリサーチをしました。以前も何度か議会図書館で調べものをしたことがありますが、前回はまだワイヤレス・インターネットのなかった時代で、注文した資料が書庫から出されてくるまでの時間(45分のこともあれば、1時間半以上かかることもある)を潰すのが難しかったのですが、今では自分のラップトップでワイヤレスにつなげるので、そのあいだメールやFacebookをしているうちに時間がたって便利。前のときもそうでしたが、議会図書館の司書さんたちは、拍手を送りたくなるくらい親切で有能で、研究者にとっては本当にありがたい存在です。担当部門の資料について知り尽くしていて、また、議会図書館に置いてないものでも調べ方を熟知しているし、あれやこれやとこちらの質問やリクエストに応えるのを職業的な誇りとしているのが明らか。こういうのをプロと言うのだ、と感じ入ります。

私が今回こもっているのは、議会図書館のなかの法律図書館なのですが、そこの閲覧室はそれほど大きくないので、私が座っていた机(ラップトップをつなげるコンセントがある机は限られている)からは、調べものをしている人と司書の会話がすべて聞こえてきます。で、ときどき面白い会話があるので自分の調べものそっちのけで耳をすませていると、元上院議員だった人(顔を見ても誰だかはわからず、会話からなんとかわからないものかと一生懸命聞いていたのですが結局わからないままでした)がアシスタントと一緒にやってきていろいろと質問している。どうやら、その元議員は自伝を書いている途中で、同僚議員の不倫そして別のスキャンダルについて、どれだけが公的な記録に残っているか、そして、それらの出来事についてその本に言及したら当事者に訴訟を起こされるかどうか、ということを知りたかったようです。なるほど、議会図書館にはこういう人がこういう目的で来るんだなあと、妙に感心してしまいました。以前にここでリサーチしたときは、音楽部門でオペラ歌手についての調べものをしたので(『Embracing the East』の第3章のためのリサーチです)、周りにいたのは、図書館に収められているさまざまな手書きの楽譜などを見ている人が多かったのですが、法律図書館では、来ている人の服装やら雰囲気からしてまるで違うのが面白いです。

自分は、National Endowment for the Arts(『現代アメリカのキーワード 』にエントリーがあります)をめぐる議会の公聴会の記録を読んでいるのですが、この手の記録をじっくり読むことは普段あまりないので、アメリカの議会政治のプロセスや言説が垣間みれて興味深いです。いろいろ思うところがありますが、考えをまとめるのは、いくらなんでももうちょっと資料を読み込んでからにします。

2010年11月13日土曜日

五嶋みどり&ニューヨーク・フィル

昨晩は、アラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルが五嶋みどりと共演するのを聴いてきました。普段のリンカーン・センターでの公演とは違ってこの日はカーネギー・ホールでの演奏会。リンカーン・センターのエイヴリー・フィッシャー・ホールは数回にわたる設計修正にもかかわらず音響がいまいちだと音楽家たちにも聴衆にも悪評なのに対して、カーネギー・ホールは音響は抜群。ただし、私が買うような最上階の安いチケットの席は、ほんとうに信じられないくらい席が狭く、座っていても足をけっこう内側にしまいこまないといけないくらい前の席が詰まっている。身体の大きな西洋人はいったいどうやってコンサートのあいだじっとしているんだろうと不思議です。で、肝心の演奏ですが、この日の演目は、前半はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、後半はジョン・アダムズ(『現代アメリカのキーワード 』に項目がありますので参考にしてください)の交響曲Harmonielehreだけという、なかなか興味深いプログラミングでした。五嶋みどりのベートーヴェンは、線の細い内省的な演奏で、かなりびっくりしました。聴衆も息をこらして集中して聴くことを要求するような演奏で、わっといわせるタイプの力強い演奏とはまるで違うのですが(それでも聴衆はわっといっていましたが)、いろいろな意味で複雑であったに違いない五嶋みどりのこれまでの人生が表れているようで、独特の感動がありました。ジョン・アダムズの曲は初めて聴きましたが、音の層の重なり具合がなかなか面白くて、私はけっこう楽しみました(一緒に行った友人のひとりは、曲が始まって数分後にすっかり興味を失ったそうですが)。アラン・ギルバートがニューヨーク・フィルの指揮者になってから初めて聴きましたが、コンサートの後で一緒に飲みにいった、オケのメンバーである友達によると、ギルバートは音楽的な指示も実に的確だし、彼が指揮するようになってからオケ全体も確実に腕が上がっている、とのことでした。

天気がいい(寒くないニューヨークというのは本当にありがたいものです)ので、今泊めてもらっている家の近くをさっきしばらく散歩してきましたが、ニューヨークの街並は20世紀初頭またはそれ以前に建てられた重厚な石やれんがの建物が多く、また、建物の入口の扉や窓の鉄枠などもよく見るとなかなか凝ってお洒落(すべてが趣味がいいわけではないですが、凝っているものは多い)で感心します。遊歩道を歩いたり走ったりしている人がみんな川のほうを見ているのに、私ひとりだけ人の家の建物の窓の写真などを撮っていても、誰ひとり変な顔ひとつしないのが、やはりニューヨーク。






2010年11月11日木曜日

Time Stands Still

ニューヨークというところは、実に面白可笑しい街です。アッパーウェストサイドでブロードウェイ沿いを歩いていると、すぐ後ろで70代くらいのユダヤ系らしき夫婦が歩きながら大声で喧嘩をしている。その喧嘩が、妻:「あなたはほんとにスノッブなんだから!」夫:「スノッブなんかじゃないさ!」という内容で、ふたりともムキになって言い争いをしているのが可笑しい。また、コロンビア大学の近くにあるLabyrinth Bookstoreという書店では、アメリカのインテリを風刺した漫画にいかにも出てきそうな男性ふたり(こういうタイプの人間はコロンビア周辺にたくさんいます)が、なんだかの映画がよかったの悪かったので、これまたムキになって大論争をしている。そんなに店内すべてに響き渡るような大声で議論しなくてもいいんじゃないかと思ういっぽうで、聞いていてなんとも面白いので思わず聞いてしまうのは、やはりそうした議論が一種のパフォーマンスでもあるからでしょう。地下鉄に乗っていても、道を歩いていても、ほんとうに感心するくらいいろんな種類の人間がいて(「種類」というのは、人種や民族もそうですが、それだけではなく、階層やら文化的スタイルやらいろいろ)、笑ってしまうくらいです。

ちなみに、今日は『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジョナサン」とランチをしました。彼とは『ドット・コム・ラヴァーズ』で書いた交際の以後も、ときどきメールをやりとりしたり、私がニューヨークに来たときは会ったりする、いい友達関係が続いているのですが、今回会ったのは数年ぶりでした。学問とは関係のない仕事をしているにもかかわらず、二冊めの著書、それもきちんとした研究にもとづいた本を大学出版から出すことが決まっており、今編集作業中だということ。誰にも頼まれず、「昼間の仕事」の足しにもならないのに、自分のやりたいことをしっかりと続けてそれを形にしている人は、素敵な年齢の重ねかたをしているなあと思いました。彼と私はとても「ケミストリー」がいいので、同じ街に住んでいたら長期的な関係になっていたんじゃないかという気がします。そんなことを言っても仕方ないですが...

さて、今日は、ブロードウェイで、Time Stands Stillというお芝居を観てきました。このブログでも何度か言及しているように、私のもっとも好きな女優はLaura Linneyで、何年か前に彼女が主演したブロードウェイのSight Unseenというお芝居も観たのですが、今回の作品はSight Unseenと同じ脚本家David Marguliesによるもの。ジャーナリストと報道カメラマンとして中東などの戦場をまわる男女が、想像を絶する惨劇を目撃して自ら心身に傷を負いアメリカに戻ったあと、その傷とどのように向き合い、自分の人生や自分にとって大事な相手と距離をはかっていくか、というテーマなのですが、脚本も演出も演技も実に素晴らしく、公演中は劇場全体が息を詰めてしーんとなっていました。登場人物四人それぞれの愛情も弱さもひたむきさも痛いほどわかり、それぞれに共感できるし、最後が実に切ない。Laura Linneyの演技はさすがで、さらにファンになってしまいました。もう一度観たいくらいです。ニューヨーク在住のかた、またはニューヨークを訪問する予定のあるかたには、是非ともおすすめです。

2010年11月8日月曜日

ハワイでの結婚式(自分のではありません)

今朝、ニューヨークに来ました。1週間ここで仕事やら遊びやらをして、数日間ワシントンにリサーチに行き、その後テキサスでの学会に行きます。ニューヨークはすでにかなり寒く、冷たい雨が降っています。

ハワイに住んでいると、どこに行くにも長時間飛行機に乗って行かなければならず、せまい空間でじっとしているのが年齢とともに辛くなって嫌なのですが(しかも今ではなんと荷物をチェックインするにもお金をとられ、どうでもいいような食事をもらうにもお金をとられ、夜中のフライトなのに毛布のひとつも使わせてもらえない!)、私は乗り継ぎでいろんな空港を経由するのはなんだか好きです。空港だけでも、いる人の種類が都市によって可笑しいくらいまるっきり違って、人間観察が面白いからです。今回はシカゴのオヘア空港経由でしたが、シカゴを朝6時に出てニューヨークに向かう飛行機は、スーツでびしっときめたビジネスマンばかりで、私のようなフードつきのトレーナーを着た人間はあきらかに場違い。そしてそれらのビジネスマンは見事なまでに白人ばかりで、出張らしき女性も数人はいるものの、驚くほど均一的な集団。ハワイではまるで見かけない種類の人たちで、同じ国のなかでも実にいろんな人たちがいるものだなあと感心してしまいます。ちなみに、ホノルルからシカゴまでのフライトでは、隣の席の人が大学の試験の採点らしきことをしているのでふと顔を見ると、なんとも偶然に知り合いの教授でした。それも、ハワイ大学の教授がどこかに行く途中というのならそれほど驚きもしませんが、彼はミシガン大学の教授。たまたま知り合いと同じ飛行機になったことはあっても、隣の席になったのは驚きでした。

さて、ホノルルを出る前日は、友達の結婚式に出席しました。アメリカの結婚式が日本のものとは似ても似つかないものであることは『ドット・コム・ラヴァーズ』で書きましたが、今回も、新郎が大学の同僚なので出席者には私の友達もたくさんいるとはいえ、やはりひとりで出席するのは居心地が悪そうなので、私のゲイのボーイフレンドに同伴してもらって行ってきました。新郎は私の同僚、新婦は長年ワシントンで労働省に務めたあと、今は中西部の大学で教鞭をとっている、労働や開発関係の仕事をしている女性で、ふたりともフィリピン移民の二世。ふたりがフルブライト研究員としてフィリピンに在住中に出会いました。披露宴で、新郎新婦を代表して新婦が実に堂々とした挨拶をしたのにまず私は感心。別に女性が前に出るからそれだけでよしというわけではないですが、新婦がふたりを代表して挨拶するということに、特に誰も不思議を感じていないようだというのも感心だし、その挨拶の内容にも感じ入るものがありました。ふたりの人生を形成してきたさまざまな人たちに感謝の言葉を述べるなかで、新郎の友人であるオバマ大統領の妹(彼女の父親はインドネシア人)とその夫(中国系カナダ人)に触れた部分。このふたりも出席していたのですが、このふたりに向かって、「2008年の選挙のとき、もちろん世界はあなたのお兄さんに注目していたけれど、私たちは、テレビに映っているあなたがた家族の姿を見て、大きな感動を覚えました。この多人種、多民族、多文化の家族がアメリカン・ファミリーなんだ、そしてこの家族が大統領の家族になったということこそが、私たちの両親のアメリカン・ドリームなんだと思いました」と言いながら涙ぐんでいた新婦(ちなみに、実に堂々とした挨拶のなかで彼女が涙ぐんだのはその部分だけでした)を見て、皆も涙していましたが、自分たちの結婚という個人的な出来事を、こうして歴史的・社会的な文脈に位置づけて語るところが、いかにもアメリカ的。そして挨拶の一番最後は、「そして、私たちにとって特別な日である今日という日がスムーズに進むように、陰で懸命に働いてくださっている当ホテルの従業員のみなさまに感謝します」という一言で、参加者全員が彼女にむけてもホテルのスタッフにむけても拍手を送ったのが、これまた感心でした。その後は、学者であると同時にミュージシャンでもある新郎が、新婦に贈る曲を自分のバンドと共演するなど、楽しい披露宴でありました。簡単には同じ場所で仕事を見つけられない学者同士の結婚はこういうことがしばしばあるのですが、この新郎新婦はこの後もしばらくは、時差だけでも4時間ある長距離の結婚生活を続けることになります。

2010年11月3日水曜日

中間選挙

アメリカの中間選挙は、予想通りの結果となり、下院では共和党が大幅に勝利して多数派となり、上院ではなんとか民主党が多数派を保ったものの、共和党を赤、民主党を青で示す全国地図で見ると、一気に真っ赤っかになってしまいました。オバマ政権の景気対策によっても思うように失業率が下がらず経済は低迷を続けていることへの苛立ち、反対派がObamacareと称して攻撃する健康保険制度改革への反発などが、以前も言及したTea Partyなどの新しい動きや共和党への回帰となって表れた結果ですが、今回の選挙戦の言説は、2年前と比べてあまりにも次元が低く、がっくりするものでした。憲法で政教分離が定められていることを知らなかったデラウェア州のChristine O'Donnellや、強姦や近親相姦による妊娠でも中絶を禁ずるという立場をとる極右のネヴァダ州候補Sharron Angleが落選したのはほっとしましたが...確かに、経済状況は依然としてきわめて悪く、人々が苛立つ気持ちも理解はできるものの、もしもオバマ大統領が2年前に政権をとらず、ここ2年間の政策が施行されていなかったとしたら、今よりどれほど悪い状況になっていたかということを、冷静に考えずに、反動で共和党に流れてしまうのだとすると、頭が痛いです。この結果によって、オバマ政権は議会との関係の強化、そして2年後の選挙対策によりエネルギーを投入しなくてはいけなくなり、それにはメリットがなくもないものの、肝心の政策施行に向けられるリソースが減ってしまうと困る...

伝統的に民主党の強いハワイでも、下院、州知事ともに、民主党はかなり危ないと言われていたのですが、下院は州上院議員のColleen Hanabusaが若手の共和党現職Charles Djouを破り、知事はNeil AbercrombieがLinda Lingleのもとで副知事を務めてきたDuke Aionaに大差で勝利して、民主党が堅持したので、こちらはとりあえずほっとしています。

2010年10月27日水曜日

Parrot and Olivier in America

しばらく前に購入したKindleで私がまずダウンロードした本のうちのひとつが、Peter Careyの『Parrot and Olivier in America』。仕事関係の本をいろいろ読んでいたため、これを読むのが遅くなりましたが、途中まで読んであまりにも面白いので、昨日むりやり時間を作って(つまりやるべき仕事をサボって)読み終えました。

アメリカについて勉強する人なら誰でも必ず一度は触れる、『アメリカのデモクラシー』という重要な本があります。フランス貴族のアレクシス・ド・トクヴィルが1831年にアメリカを視察旅行した際の観察をまとめ、アメリカの政治制度や社会風土を論じたもので、アメリカ型民主主義にかんする洞察は現代からみてもとても的をえていて興味深いのですが、Peter Careyのこの最新作は、なんとこのトクヴィルのアメリカ見聞旅行を題材にした歴史小説。フランス革命後の混乱を逃れるためアメリカの刑務所を視察するという名目で新大陸に出かけるオリヴィエは、もちろんトクヴィルをモデルにした人物。そして小説には、通称Parrotという(粗野な育ちでありながら、なんでも見事に物まねできる能力からくる通称)、波瀾万丈な人生を生きてきた、教育は受けていないけれども知恵と能力のあるイギリス出身の元印刷工(というだけでは説明不足なのですが、説明しだすとややこしいのでここでは省略)がもうひとりの主人公となっています。このふたりが、妙ないきさつから共に旅をすることになり、その珍道中のさまを、ふたりがそれぞれの視点から語る、という形式になっていて、この形式が絶妙。こうした出自も身分も性格もまるで違うふたりが、互いのこと、そしてアメリカのことを交互に語ることで、市民革命期のヨーロッパやアメリカの様子が複層的に見えてくるし、物語としても読者をぐいぐい引き込む。トクヴィルについてはもちろん、この時期のアメリカ史については莫大な研究があるので、そうした資料を綿密に調べてあることはもちろんですが(著者のウェブサイトには、この小説を書くにあたって著者が参考にした文献リストが載っています)、小説ですから、もちろん著者が史実に面白可笑しく手を加えたり、著者の想像の産物である人物や出来事もたくさんあり、その手の加えかたが、さすがと唸らせる。アメリカの市民社会に驚愕し、拒否反応と親慕の情を同時に深め、自分も「アメリカ人」になろうとまで決意するオリヴィエが、アメリカのなにに魅かれ、なにについていけないと感じるか、そしてオリヴィエの言によれば「後ろを向いている」フランスと前につきすすむ若いアメリカの最大の違いをどこに見るか、といったことから、オリヴィエの政治や政治家や商業や芸術や女性についての具体的な観察まで、面白さは尽きません。また、物語の終わりでふたりの主人公がどのような表面・内面ともにどんな変化を遂げているかにも、不思議な感動があります。

著者のPeter Careyは、オーストラリアを代表する現代作家ですが、1990年代からはニューヨークに住んでいて、そうした彼のアメリカへの思いとも重ねあわせて読めるのではないでしょうか。この小説を読むと、トクヴィル(私は大学院のとき以来読んでいません)も読み直したくなるし、Careyの他の作品も全部読んでみたくなります。

ちなみに、しばらく前のニューヨーカーに、この小説のレビューも含めたトクヴィル論の記事がありますので、とくにアメリカ研究者にはおすすめです。

それから、Kindleについてですが、今のところおおいに気に入っています。文字のサイズを変えたり線を引いたりしおりをつけたり(メモをとることもできるのですが、私はまだそこまで至っていません)もできるし、なんといっても軽量なのがすばらしく、小説を読むにはなかなかよいです。本格的な研究書を読むにはまだ使っていないのでどうかわかりませんが、検索ができるという点では、研究書にはむしろ向いているとも思います。来月はしばらくニューヨークとワシントンとテキサスに出かけるので、そのとき持ち歩くにはとても便利なはずです。

2010年10月26日火曜日

アメリカの新型文化外交

冷戦さなかの1950年代や1960年代に、アメリカ国務省が積極的にジャズ・ミュージシャンなどを世界各地に送り出し、芸術文化を通してアメリカの自由と民主主義を宣伝する(という意味で、アメリカ国内でさまざまな形で強固な人種差別が残るなか、あえて黒人のミュージシャンが積極的に送り込まれたのもポイント)「文化外交」が推進されました。この歴史については、『Satchmo Blows Up the World』というたいへん興味深い本があり、ミュージシャンたち自身がどのように自らの立場やアイデンティティや芸術をこうした国策と折り合いをつけていったか(あるいはつけなかったか)に関して、ニュアンスに富んだ分析がなされています。アメリカ政府は2001年以来こうした文化外交に再び力を入れるようになり、10年間で文化外交に当てられる予算は約7倍にも増大しました。今年度はこの文化外交プログラムの一環として3つのダンス・カンパニーがアフリカ、アジア、太平洋、南米などに公演ツアーに派遣されています。

これまで文化外交は、このように音楽やダンスなどの舞台芸術が中心だったのが、オバマ政権が百万ドルをあてた新プログラムのもと、絵画や彫刻などの美術の分野でもいわゆる「文化大使」を派遣する、という発表がなされました。これによると、ブロンクス美術館が管轄となって、選ばれたアーティストたちが、パキスタン、エジプト、ベネズエラ、中国、ナイジェリア、そしてケニアのソマリア難民キャンプなどに派遣され、パブリック・アートを制作する、とのことです。

私は今、文化政策の日米比較について研究を始めているところなので、こうした形での政府と芸術の関わりにはおおいに関心があります。国のプロジェクトということで、アーティストたちの表現にどのような制約が加えられるのか加えられないのか、こうした文化交渉が芸術そのものにどのような影響を与えるのか、各地の市民が作品にどのような反応を示すのか、興味津々です。

2010年10月21日木曜日

Juan Williams氏、NPRからFOXへ

先ほど、ジョギングに行く車でラジオをつけたら、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)でなんだかやたらと騒いでいるのでなにかと思いきや、アナリストのホアン・ウィリアムズ(Juan Williams)氏が、保守のテレビ局FOXの番組に出演中、極端で個人的な意見を発言したとして、NPRがウィリアムズ氏との契約を破棄した、とのことです。NPRやFOXについては『現代アメリカのキーワード 』に項目がありますので参考にしてください。ウィリアムズ氏は、FOXの人気番組でもありかつもっとも物議をかもす番組でもあるThe O'Reilly Factorで、「飛行機に乗っているときに、イスラムの衣服を身につけた人が乗っていたら、心配になる」との発言をした、とのこと。この発言の後には、イスラム教徒すべてを過激派と一緒にするのは問題だ、という意味のコメントも補足したものの、この発言には当然ながら多方面からの非難が殺到。もともとNPRのスタッフ記者だったウィリアムズ氏は、以前にも他局の番組や新聞の紙面で個人的な見解を述べることが多かったことから、NPRは彼に警告を出しており、スタッフ記者から契約で仕事をするアナリストに立場を変更していましたが、今回のこの発言はNPRの編集方針に合わず、NPRのアナリストとしての信頼性をおとしめるものだとして、NPRはウィリアムズ氏との契約を破棄。

それを受けてウィリアムズ氏のほうは、「NPRが自分を解雇したのは、自分が『リベラルな黒人』というNPRが期待する枠組みにはまらないからだ。自分を解雇するのは、NPRにおいて意見や思想の多様性が認められていないからだ」と、いわゆる「リベラル・メディア批判」を展開。また、この事態を受けて、FOXはさっそく2百万ドルの報酬でウィリアムズ氏をスタッフに迎え入れたという、これまたえげつない展開。また、この一連の出来事をやり玉にあげ、政府のNPRへの資金提供を一切打ち切るべきだと言い出している保守派の政治家もいる、とのことです。

ハワイ・パブリック・ラジオという局を含め、今ちょうどNPRの番組を配信している全国の公共ラジオ局は、資金集めのためのキャンペーンをしている最中なだけに、こうしたニュースが今出てしまうのはなんとも都合の悪いタイミングです。

2010年10月17日日曜日

エストニア 歌の革命

ひょんなことから、『The Singing Revolution』というドキュメンタリー映画を観ました。「ひょんなことから」というのは、ネットのレンタルDVDを検索していて、音楽関係のものを借りることが多い私に「おススメ」として出てきたというのと、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』のおかげでリトアニアにちょっと興味をもったので、近隣国についての話だというこの映画を借りてみたわけです。予想を大きく超えてとてもいい映画でした。

バルト三国が独立したときのことは覚えていますが、そのときもそれほど詳しい報道を見聴きした記憶もなく、「ソ連から独立した」という以上のことは正直言ってまったくなにも知らなかったのですが、この映画を観て、よくもこんなことを自分がこれまで知らずにきたものだと呆れると同時に、エストニアの人々の粘り強さと勇気と知性に実に感動しました。国民の3人に1人が参加するという「歌の祭典」も感動ですが、周辺の強国(ロシアの以前にはデンマークやらスエーデンの支配があったのですが、この部分は映画には出てこない)ロシア、ソ連、ナチス、そしてまたソ連に支配・占領され、住民の多くがまともな嫌疑もないままシベリアに連行されるなど、実に苛酷な歴史を生きるなか、民族の誇りを保ち続け、ソ連共産政府を相手に、根気と勇気のある独立運動を展開し、ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチの波をうまく利用し、内部の対立も理性的に乗り越え、軍事介入の危機のさなか、独立を手に入れたというその歴史、そしてそれがかくも最近のことであるという事実に、ひたすら驚かされました。「自分たちの国」にかける思いの強さというのはすごいものです。『日本語が亡びるとき』との関連で、エストニアの国語、そして文学について是非知りたいと思いました。美しい土地でもあるようだし、行ってもみたい。とにかく、たいへん勉強になると同時に感動を得られる映画ですので、ぜひどうぞ。

2010年10月15日金曜日

「アメリカ人の宗教知識」へのコメント

先日の投稿で紹介した、Pew Research Centerによるアメリカ人の宗教知識にかんする調査結果について、宗教学・歴史学・社会学などさまざまな分野の専門家がコメントしたものを、Social Science Research Council(これは私の今年度の研究助成金を出してくれている機関です)がブログで発表しました。これもなかなか面白い。

専門家たちに出された質問が、「Pew Research Centerによる調査結果は、アメリカにおける宗教の知識(そして無知)についてなにを明らかにしていると思いますか。このような形の宗教知識はアメリカの公共生活においてどれほど重要だと思いますか。」というものだったことも大きいでしょうが、専門家たちは、具体的な結果についてのコメントだけでなく、このようなクイズ形式で人々の「宗教知識」を計り、その結果によってその社会的な意味を論じる(要は、人々の無知を嘆いて悲観する)ことの問題点を指摘している人が多いです。主要な宗教の教義・聖典・人物などについての具体的な知識は、もちろんないよりはあったほうがよいだろうが、多くの人々にとって「宗教」やとはそのような事項にかんする知識ではないし、「宗教知識」をそのように定義すること自体に調査そのもののバイアスが表れている。また、アメリカ人の多くがこのような宗教知識に欠けているのはたしかにしても、おそらくそれは、世界の歴史や地理、時事問題、文学などについて同様の調査をしても似たような結果が出ると予測され、他の分野とくらべてとくに宗教にかんする知識が欠けているとはいえないだろう。そしてさらに、アメリカにおいてこのような形の宗教知識がたとえ増えたとして、それが実際にどのような社会的影響をもたらすかは明らかではない。などなど。なかなか興味深いので、よかったら読んでみてください。

2010年10月10日日曜日

アメリカ人の宗教知識

しばらく前に、Pew Research Centerというワシントンのシンクタンクが、アメリカ人が世界の主要宗教についてどれだけの基本知識をもっているかという調査結果を発表し、話題になりました。さまざまな宗教的アイデンティティをもつ人に、各宗教の歴史、教え、主要人物などについての質問に答えてもらったところ、世界の宗教についてもっとも総合的な知識があったのは、無神論者/不可知論者だという皮肉な結果。でも、考えてみれば、アメリカのような社会で無神論者/不可知論者の立場をとるには、さまざまな宗教について意識的・批判的にものを考え勉強しなければいけないので、この結果は実際は当然といえば当然ともいえるでしょう。それについで成績がよかったのは、ユダヤ教、モルモン教、白人の福音主義プロテスタント、白人のカトリックの人々。比較的成績が悪かったのは、主流派プロテスタント、「とくになにも信仰していない」(これは「無神論者/不可知論者」とは別個のカテゴリー)、黒人プロテスタント、ヒスパニック系カトリック。こうした全体の結果の他にも、どのグループがなにを知っていてなにを知らないか(たとえば、聖書やキリスト教についての知識が多いのは福音主義プロテスタントとモルモンであるいっぽうで、世界の宗教、および社会における宗教の位置づけについての質問にかんしてもっとも成績がよかったのは無神論者/不可知論者とユダヤ教。宗教改革の主要人物が「マーティン・ルーサー」であると答えられたのは全体の半分未満(!)、インドネシアの人口のほとんどがイスラム教であると答えられたのは三分の一未満など)というデータもなかなか興味深いです。

この結果を受けて、ニューヨーク・タイムズの論説委員のNicholas Kristof(彼は以前ニューヨーク・タイムズの日本局長をしていた人物)が、過激派や原理主義に焦点をあてた「宗教クイズ」を昨日の新聞に載せています。Pew Research Centerの調査に使われた質問も、多くの日本人にとってはけっこう難しいのではないかと思いますが、これはさらに難しい。ちょっとやってみてください。

私は、日本の大学では、世界思想史と並んで、世界の宗教にかんする授業を必須にするべきではないかと思っています。学生に宗教心を植えつけるなどということが目的ではもちろんありません。ただ、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も国の主流文化の一部ではなく、仏教や神道でさえ多くの人々にとってはきわめて漠然としたものである現代の日本において、今の世界で起こっていること、そして世界の人々が信条としていることを、きちんと理解するためには、少なくとももっとも主要な宗教についての基礎知識が必要だと思うのです。私自身、宗教にかんする無知は、アメリカを専門とする研究者としてはもちろん、ものを考えるひとりの人間として、かなり大きな欠陥だと思っています。実際に聖典を読みながら、主な宗教の歴史や教義や信仰様式、宗教間関係、宗教と政治、宗教と科学などについて、内容の濃い通年の授業が大学一年や二年のときにあったら、とても意義深いのではないかと思います。

2010年10月3日日曜日

著述という名の翻訳

私は今ある翻訳の仕事を手がけているせいで、翻訳というテーマ、とくに小説家が翻訳というテーマを扱った論述に敏感になっているのですが、昨日のニューヨーク・タイムズに掲載されたMichael CunninghamのFound in Translationという論説がなかなか素晴らしい。Michael Cunninghamは、ヴァージニア・ウルフの人生を題材にした小説The Hours翻訳もありますが、翻訳は読んでいないのでその良し悪しはわかりません)の著者。この小説はなかなか名作で、映画もよかったです。で、その著者がこの論説で述べているのは、文学作品というものは、単に意味を伝えるという機能だけでなく、文章がひとつの音楽のように、言葉の流れやリズムを通して読者に語りかけるものである以上、作品が他の言語に翻訳されるときには、そうした音を通じて伝達される意味も翻訳されなければならず、ゆえに翻訳は難しい。けれども、文学(ここで扱われているものは文学、とくに小説ですが、論じられていることのポイントは広義な著述活動全般にもあてはまるでしょう)における翻訳というものは、ひとつの言語から別の言語へ文章を書き替えるという作業だけではない。ある意味では、著者が頭のなかで思い描いた世界のビジョンを、文章という形にする、その作業そのものがもっともハードルの高い翻訳であり、どんなに優れた作家でもそれが完璧に遂行できるということはありえない。そしてまた、その作品があるときには原作のまま、あるときには別の言語に翻訳されて、読者の手に届くとき、著者が伝えようとした世界と読者が読み取るものとのあいだで、一種の翻訳がおこなわれる。著者と読者のあいだに、ある世界が共有されるという理想と希望を求めて、著者も読者も作品に向かう。

という大きな話もさることながら、私がおおいに共感したのは、小説家志望の若者の多くは、
「なんのために書くか」と問われると「自分のため」と答え、もちろん究極的にはその答は間違っているとは言えないけれども、単に自分を満足させるために書くのだったらその作品が世に出る必要はない。ましてや、働いたり子どもの世話をしたり習い事をしたり友達づきあいをしたりニュースをみたりと忙しい世の人々に、すでに傑作とよばれるにふさわしい文学がたくさん存在するなかで、自分の小説を読ませる筋合はない。ものを書く人間は、そうした他にもやることがたくさんある忙しい人に、あえて他のことを休んで人生の数日間を、自分の文章を読みふけりその世界に浸ることに費やしてくださいというのであれば、その人のその時間をムダにしないだけの作品を提供する義務がある、と。内容的にも文章的にもまったくもって読者をバカにしているとしか思えないような書物がたくさん世に氾濫するなかで、この謙虚さと志の高さを兼ね備えたメッセージを、(私自身を含めて)ものを書く人間も本を作る出版社も肝に銘じないといけないですね。とにかく、この論説は内容も文章もすぐれたなかなかの美文ですので、読んでみてください。

2010年9月28日火曜日

2010年度「天才」賞受賞者発表

毎年マッカーサー財団(John D. and Catherine T. MacArthur Foundation)という財団が「創造性と独創性に富んだ活動をし、これまでの業績からかんがみて将来も重要な貢献をする可能性があり、賞金を創造性のある活動に使う見込みがある」という基準で選ばれた約20名の人たちにMacArthur Fellowshipという賞を授与します。この賞は通称Genius Award、つまり「天才賞」として世間では知られていて、たいへんな権威と名誉があります。この賞を受賞するのは、科学者や歴史家に始まって作曲家や小説家など、ありとあらゆる分野にまたがっていて、受賞者には50万ドルの賞金がno strings attached(この表現は『性愛英語の基礎知識 』にも出てきますね:))、つまり使い方になんの制限もない形で与えます。芸術家や作家などは、この資金でしばらく生活の心配なく制作や執筆に専念できますし、文系の大学教授の場合は、大学の授業をしばらく休むまたは減らして研究に打ち込むことができます。多額の資金が必要な実験などをする科学者の場合は、50万ドルというお金は実際の研究資金としてはそれほど大した額ではないものの、それでもこの資金を使って研究アシスタントを雇ったり実験装置を買ったりして、さらなる研究を進めることができます。私の知り合いのなかでは、大学院時代に授業を受けた女性史の教授Mari Jo Buhleや、新進のアーティストとして注目されている立体芸術家Sarah Szeが過去に受賞しています。

今年の受賞者23名も、なかなか面白い顔ぶれ。なかでも私が個人的に興味があるのは、ジェファソンが関係をもっていたことが知られている奴隷の女性とその子孫の歴史を通じて、奴隷制や人種や性の複雑な歴史を解き明かした研究で知られている、歴史・法律の専門家、Annette Gordon-Reed。ブラウン大学のあるプロヴィデンス市で町の(多くは恵まれない環境で育っている)子どもたちのための音楽教育プログラムを運営しているSebastian Ruth。(Community MusicWorksというこのプログラムについては、Alex Rossが『ニューヨーカー』にとてもいい記事を書いていて、発売ほやほやの彼の新著『Listen to This』に収められています。)麻薬犯罪や政治腐敗にまみれたボルティモア市の複雑な現実を独特な手法で描いたテレビ番組『The Wire』(こちらではもう放映は終わってしまいましたが、これは無茶苦茶迫力があってとーっても興味深いですので、DVDで是非みてください)のプロデューサーで、作家・脚本家でもあるDavid Simon。受賞者はたいてい30代や40代の人が多いのですが、今回の最年長は、72歳で、活字フォントのデザイナーのMatthew Carter

こういった実にいろんな形の創造性や独創性、そして社会への貢献というものを評価し支援するのが、アメリカならではだなあと思います。

2010年9月27日月曜日

The Value of Hawai'i

昨日、私の親友が熱心に活動しているAmerican Friends Service Committee(クエーカー教会を母体とする社会奉仕団体)のハワイ支部のファンドレイジングの昼食会に行ったのですが、そこで、二年前に私のアメリカ女性史の授業をとった学生に会いました。かなり優秀な学生だったのですが、私が一年間日本に行っていたので、授業が終わってからは会うのが今回が初めて。私の姿を見つけると大きな笑顔でやってきて、「先生にぜひ報告しようと思っていたんですが、私は今Local 5でオーガナイザーとして仕事をしているんです。先生の授業でいろんな社会問題について考えるようになって、あの授業でpoliticizeされて、この仕事をするようになったんです」と言うので、びっくりすると同時に嬉しくて涙が出そうになりました。Local 5というのは、ホテルや飲食業などのサービス産業を中心とする労働組合(Hotel and Restaurant Employees International Union, HERE)のハワイ支部で、ILWU (International Longshore and Warehouse Union)という、もともと港湾業の労働者たちを組織してきた労働組合と並んで、ハワイでは二大組合として労働運動をリードしてきました。私の別の授業をとっていた、これまたとても優秀な学生がLocal 5でインターンをしていて、他の学生にも労働組合の役割や仕事を知ってもらうために授業が始まる前に五分間スピーチをさせてほしいというので、女性史の授業に来てもらったところ、昨日会った学生を含め何人かの学生がLocal 5の主催する学生向けのワークショップに参加し、彼女はすっかりやる気を燃やして、そのまま組合に就職してしまった、というわけです。彼女がいうpoliticizeというのは、直訳すれば「政治化する」となり、日本語にするといかにもどすぐろい政治にまみれる、といったふうに聞こえてしまいますが、こうした文脈では、要は、「社会のさまざまな力関係について政治的な問題意識をもつようになる」ということです。教育というのがこうして意味をもつことを実感できるのは、本当に嬉しいことです。

また、この昼食会のプログラムの一部では、高校生ふたりによるスポークン・ワードのパフォーマンスがありました。スポークン・ワードというのは、自作の詩を朗読するパフォーマンス芸術で、一部の若者のあいだでかなり流行っており、とくに社会問題をとりあげた集会などではよくスポークン・ワードのアーティストが公演したりします。で、昨日公演したのは、フィリピン系労働者階級の集まる地域で地元では「よくない学校」の代表としてレッテルを貼られることの多い公立高校の生徒。この学校の生徒たちに、ヒップ・ホップやスポークン・ワードを通じて、自分という人間や自分たちのコミュニティを大事にする自信とプライド、社会で活躍できるための学力、将来への希望を与えるプログラムがあり、私の知り合いや元学生が教えているのですが、ここで公演したのはそのプログラムのスター生徒。マイクの前に立つその姿には、ティーンエージャーらしいひたむきさ(と、表情のあちこちに垣間みられる生意気さ:))、そしてティーンエージャーとは思えない存在感があり、詩そのものにも、そしてパフォーマンスにも、文字通りこちらの身体ごと揺さぶるようなパワーがあり、私は心の底から衝撃を受けました。詩が扱う内容は、自分の男らしさを示そうとして軍に志願する従弟へのメッセージだったり、自分の顔や身体が気に入らなくて化粧や整形で自分を変えようとするガールフレンドへの切ない思いだったり、「こんな世の中だけど、私たちはしっかりやっていくから、心配しないで大丈夫」という大人へのメッセージだったりと、いろいろなのですが、こうした種類の詩というのはともすれば説教のようになってしまって文学性も面白味もないものになりがちなのにもかかわらず、このふたりのパフォーマンスは、内容的にもその語りにも、目をみはるような真実があって、圧倒されました。予算削減のために金曜日に学校が休みになってしまうようなとんでもない州の公立学校でも、こんな才能のある若者が育っているのだったら、たしかに将来も大丈夫かもしれないと思ってしまうくらい感動しました。

若者のエネルギーに感動する機会は、一昨日もありました。アート、LGBT、ハワイアン運動など、さまざまな形でコミュニティで運動している若者の団体が集まって開催したイベントに行ったのですが、このイベントは、発売されたばかりの『The Value of Hawaii: Knowing the Past, Shaping the Future』という本の刊行を記念して開催されたもの。この本は、不況で公立学校教育や各種公共サービスなどが大きな打撃を受け、ハワイの住民の生活の質がどんどん悪くなっていくなか、ハワイはなぜこうなってしまったのか、このコミュニティをより豊かで希望のあるものに変えていくにはなにをしたらよいのかを考えるために編集されたエッセイ集。経済や観光、軍にはじまって、公立教育や刑務所、ホームレス、DV、資源など、さまざまな分野で第一線で活躍している専門家たちが、それぞれ約3000語という簡潔なエッセイで、問題の歴史的背景と今後への提言をしています。序文でも説明されている通り、著者の視点やスタイルは様々ですが、共通する問題意識としては、(1)ハワイが経済的・社会的・倫理的に健全な道を辿るためには、先住ハワイアンの主権とくに土地の権利にきちんと向き合わなければいけない、(2)各種の公的規制や公的事業の崩壊はハワイのコミュニティにとってとてつもない悪影響を及ぼしている、(3)状況改善のためには政府や公共機関と民間セクターがよい形でパートナーシップを組むことが必要、という三点。ハワイに住んでいる人以外にはピンと来ないことも多いだろうとは思いますが、観光ガイドには見られないハワイのありかたがひしひしと伝わってくると同時に、「なんとかしなくてはいけない」という人々の思いが雄弁に語られてもいて、私はこの本を読んでいると、深い絶望と大いなる希望の両方をもらう気がします。ハワイのことに少しでも興味がある人は、是非とも読んでみてください。車の修理工場が集まるエリアにあるカフェで行われた一昨日のイベントでは、民主党の州知事候補となったNeil Abercrombie氏や州議会議員、州教育委員会のメンバーなど、ハワイの「大物」を集めたパネル・ディスカッションがあり、聴衆は老若男女実に多彩な顔ぶれが大勢集まっていて、熱気のある雰囲気。こうしたイベントを若者が中心になって企画する、ということ自体にも、私は希望をおぼえます。

ハワイに戻ってきてちょうどひと月がたちますが、アメリカそしてハワイの経済・社会状況は、日本にもまして暗いですし、社会階層の格差が人種や地域と濃厚に結びついて、これでもかという形で見せつけられるので、暗澹たる気持ちになることも多いのですが、そのいっぽうで、社会を変えていこうという人たちのエネルギー、そして組織力に実に関心させられることも多いです。良くも悪くも、絶望の度合いも希望の大きさも、こちらのほうがスケールが大きいような感じがしています。

2010年9月26日日曜日

大学院生から大学一年生へのアドバイス

現在ニューヨーク・タイムズで「もっともeメールされている記事」というのが、現役の大学院生から大学一年生へのアドバイスをいくつか集めたもの。アメリカでは新学年が始まって一ヶ月ほど経つところで、大学生活を始めたばかりの一年生も、興奮や緊張といった最初の感情がややおさまり、それと同時に大学に対して抱いていた憧れや恐怖といった感情も形を変え、授業のつまらなさや周囲の人間たちに失望したり、あるいは授業や同級生の話にまるでついて行けないことを認識したり、ここは自分がいるべき場所ではないと痛感したりする時期。初めて親元を離れて暮らすことでの自由や解放感を手に入れるいっぽうで、生活のリズムや精神のバランスを崩す学生も少なくありません。アルコールやドラッグ、そして若者特有の性文化のもたらす危険もあるので、アメリカで大学に旅立つ子どもを持つのは日本とはまた違った心配があるなあと、友達を見ていて思います。

『アメリカの大学院で成功する方法』でも説明しているように、アメリカの大学では、とくに一、二年生向けの授業では、教授による大人数の講義が週に二、三回あり、それに加えて大学院生のティーチング・アシスタントが週に一回、小人数グループでのディスカッションや実験の指導などをする、という形式が多く、その場合はティーチング・アシスタントがレポートの添削や試験の採点なども担当します。ティーチング・アシスタントは、学部生の勉強をもっとも実際的に手取り足取り面倒みる役割を担うと同時に、学部生に比較的年齢も近く、自ら学部生活を割と最近経験してきた立場なので(といっても、アメリカの大学では、教授よりもティーチング・アシスタントのほうが年上だったりする場合もそれほど珍しくはありませんが)、そうした視点からのアドバイスとなっていて、なかなか興味深いです。勉強に関することも、より幅広い意味での人生経験に関することも含まれていますが、アメリカならではのものもありますが、私が面白い(そしてその通りだ)と思うのが、「自分よりずっと貧しい、あるいはずっと裕福な環境で育った友達と交流すること」「自分と異なる宗教や人種の相手と『デート』すること」「大学の外に出て、その街のことを知る努力をすること」「教授でも学生でもない人たちと知り合うこと」「教授の研究のアシスタントをしてみること」「一日数時間は、コンピューターからも携帯からも離れて、じっくりものを読む時間を過ごすこと」といったようなもの。

私はバブルの時代に浮かれた大学生活を送ったので、大学時代については反省することが大いにあるのですが、そうした反省と、大学生を教える今の立場から、私が新入生にアドバイスをするとしたら...

*とにかく勉強すること
*人の輪に入っていることだけで安易に安心・満足しないこと
*ひとりでものを考える時間を大事にすること
*古典をしっかり読むこと
*自分のことを本気で指導してくれる教授を少なくとも二人見つけ、関係を築くこと(願わくばこの二人は分野や視点や世代や性別の違った人物であるとよい)
*就職などに直接役に立たない勉強をたくさんすること
*人と真剣に話をすること
*恥ずかしげもなく大きな夢をもつこと
*旅をすること


2010年9月18日土曜日

Kindle購入!!!

Kindleを買おうかiPadにしようか、しばらく悩んでいたまま決められずどちらも買わずにいたのですが、新しいKindleは値段もずいぶん下がり、レビューでも好評なので、次世代のiPadが出るまでこちらを試してみようと思って買いました。評判がよくてしばらく売り切れになっており、アマゾンで注文してから届くまでに2週間かかりましたが、箱を手にしてみてまず、その軽さにびっくり。この箱と同時に、アマゾンで注文していた紙の本が別の箱で届いたのですが、紙の本のほうがずっと重い。わくわくどきどきしながら箱を開けてみると、出てきたKindleは実に薄っぺらく、本当にこんなものに何千冊もの本が入るのかと、まったく電子情報というものの性質を理解していない人間の発想をしてしまう。また、スクリーンを保護するための透明シートが貼られているのですが、それをはがしても、画面に出ている画像や文字が、あまりにもマットな感じなので、私はてっきり、絵つきのシールがもう一枚貼られているのだろうと思って、しきりにはがそうとしてしまったのですが、実はそれはオフ状態での画面。そして、いよいよ電源を入れて画面に出てくる文字や画像も、それと同じでやたらとマットで、コンピューター画面に独特のチカチカした光がなく、ほんとうに紙面でものを読んでいるような感覚。

とりあえず何冊か本をダウンロードしてみようと、早速買ったのが、この3冊。ほんとうにボタンを押して一瞬にして本が手元に届くのがすごい。




どれも新聞や雑誌で書評を読んだり、ナショナル・パブリック・ラジオで聞いたりして興味があったものの、わざわざ日本にいるあいだに本を注文してまたハワイに送り返すほどすぐさま読もうとも思わなかったものです。ノンフィクション、小説、研究書と、種類の違う本をKindleで試してみるのもよいと思っての選択です。3冊めには写真も結構使われていますが、なかなかキレイに出てきます。この3冊のほか、雑誌のニューヨーカーのKindle上の定期購読も注文しました。

まだ手にして2日間しかたっていないので、新しいおもちゃをもらった子どものように、嬉しくていろいろいじっているところで、しばらく使ってみないことには冷静な評価はできませんが、今のところは大いに気に入っています。なにしろ軽いのがよく、持ち歩いたりベッドの中で読んだりするにはとても便利。他のアプリケーションをいろいろ使うならともかく、基本的に本を読むために使うのなら、iPadよりもこちらのほうがいいんじゃないかとちらりと思いますが、iPadを持ったことがないので、これはあくまでKindleを買って喜んでいる人間の意見。

本を読んで育ち、本を書く人間になった私としては、もちろん従来の紙の本にも強い愛着があるのですが、それと同時に、電子書籍のもつ可能性もすごいと思います。検索やメモとり機能も便利だし、送料や収納スペースなどを考えたら、これは大拍手もので、日本でも英語の本をけっこう読む人にとっては、とてもいいのではないでしょうか。

もうしばらく使ってみてから、また感想を報告します。

2010年9月16日木曜日

Food, Inc.

2年前に公開されて話題になっていたもののまだ観ていなかったFood, Inc.をDVDで観ました。前から友達にも薦められていたのですが、観るとなにも食べたくなくなるような気がして、なんとなく避けていたようなところがあったのですが、観てみると、やはりなにも食べたくなくなる...でも、それと同時に、恐ろしさと哀しさと怒りがこみ上げてきて、小さいことからでも行動を起こさなければいけない、という気持ちになります。

この映画は、現代アメリカの食品産業のありかたを取り上げたドキュメンタリー。ここ数年間に、Eric Schlosserの『ファストフードが世界を食いつくす』やMichael Pollanの『雑食動物のジレンマ』などの著書やそれをもとにした映画などで、アグリビジネス(ちなみに『現代アメリカのキーワード 』の「アグリビジネス」の項もどうぞ参考にしてください)の現状が衝撃的にレポートされてきましたが、この映画もたいへんショッキングです。前にこのブログでRuth Ozekiの小説『イヤー・オブ・ミート』について言及しましたが、私はこれを読んだとき、一瞬ベジタリアンになろうかと考えたものの、面倒くさがりの私はそのまま肉を食べ続けてきました。しかし、こういうものはやはり、映画という形でビジュアルを目の前にすると衝撃度が違います。

もともとジェファーソンの時代からヨーマンとよばれる自営農民を国民の理想としてきたアメリカでは、今でも農業というと中西部でオーバーオールを着たおじさんとおばさんが広大な農場でせっせと働いているといったイメージが強いものの、実際は、一般消費者が口にする食品のほとんどは、一握りの大企業によって「高度に」工業化された食糧生産によって、さまざまな形で加工されたもの。短期間に効率的に大量の食糧を生産するため、さまざまな技術を使って、急速に太らされた鶏が、自分の身体を足で支えられず、歩くこともできない、そもそも歩くような空間は与えられておらず、何万もの動物が窓もない飼育場にぎゅうぎゅうに詰め込まれそのまま屠殺場に送られる。牧草の代わりに廉価なトウモロコシが牛に与えられ病気を防ぐため抗生物質がどんどん投与される。

そういった現実は、隠しカメラで撮影された映像を含め実際の光景を目にすると確かにものすごい衝撃を受けますが、私にとってそれよりさらに憤りを感じたのは、農業に従事する人間たちのありかた。事実上の雇用主である大企業からのプレッシャーで、「効率化」を求めて次々と新しい設備や機械を購入しなければならず、巨額の借金を抱え(アメリカの平均的な農家は、50万ドルの借金を抱え、年間の収入は1万8千ドルだという数字が出てきたような気がしますが、そんなことって本当にありうるんでしょうか???)、企業の指示に従わなければさっさと契約を破棄されてしまう。翌年のためにと種をとったり、少しでも産業に批判的な発言をすれば、大勢の弁護士を抱えた企業に特許法違反や名誉毀損で訴訟を起こされ、裁判の費用だけで倒産してしまう。また、動物にとっても不健全で非倫理的な環境のなかで、屠殺などの危険な作業に従事するのは、メキシコなどから非合法移民でやってきている労働者たちで、労働基準法などに守られないまま何年間、ときには何十年間も低い賃金で働いた彼らは、移民局の摘発にあい強制帰国となっても、雇用者はなんの手助けもしない。そしてまた、真面目にせっせと働いてもまともな給料ももらえず、ゆっくりと料理をする時間も余裕もない消費者たちは、安いファースト・フードなどの食事についつい手を伸ばしてしまい、結果、低所得者層や人種的マイノリティのなかで、肥満や糖尿病が蔓延する。

といった調子で、観ていて実に暗い気持ちになるのですが、それと同時に、こうした状況のなかでも、農業の本来あるべき姿に忠実に、動物にも地球にも労働者にも消費者にも健全な農業を営んでいる人の姿や、食の安全を求めて政府に働きかける活動家の姿も出てくるし、我々一般の消費者が日常的にできることも具体的に提案(当たり前といえば当たり前のことですが、なるべく地元で作られた、無農薬・有機栽培の食品を、ファーマーズ・マーケットなどで買うこと、スーパーで食品を買うときにはどこで作られたもので、それに何が入っているのかちゃんとチェックすることなど)されているのがよいです。

日本にいるかたも、DVDやiTuneで観られるので、ぜひどうぞ。

2010年9月13日月曜日

ハワイの選挙戦と「ローカル」力学

昨日は、シアトルから休暇と講演を兼ねてハワイに二週間来ている知人がオアフ島の北側のビーチハウスを借りて滞在中なので、彼に会いに行ってきました。ブランチをしながら二時間ほどしゃべってさっさと帰ってくるつもりが、海と空があまりにも美しく、静かで平和なので、結局まる一日をそこで過ごすことになりましたが、フィリピン史の専門家であるその知人との会話も、芝生の庭で海を見ながら食べたサンドイッチも、ゆったりと流れる時間も、なにもかもが完璧で、頭も心も身体も幸せな一日でした。

アメリカでは十一月の中間選挙にむけてキャンペーンが繰り広げられていますが、ハワイでは、各党の候補者を選ぶ予備選が今週土曜日に行われます。各候補が掲げる綱領の内容ももちろんですが、選挙キャンペーンの形式というのも、日本とアメリカでずいぶんと違い、それを観察するだけでもなかなか面白いです。たとえば、車社会のアメリカでは、日本の都会であるような街頭演説というものはまずなく、演説や候補者同士の討論は学校や街の講堂などの集会で行われるいっぽうで、交通量の多い道路沿いや交差点付近で、候補者および支援者が候補者の名前をかいたサインを持って車で通り過ぎる人たちに向かって手を振る、というのがよくあるキャンペーンのひとつです。

さて、ハワイで今回もっとも注目されている選挙のひとつが、州知事選です。伝統的に民主党の強いハワイ州で、その伝統を破ってここ二期は共和党のLinda Lingleが知事を務めてきましたが、彼女の後任の座を民主党が取り戻そうとしています。民主党の最有力候補は、合衆国下院議員を務めてきたNeil Abercrombie氏と、ホノルル市長を務めてきたMufi Hannemann氏。このふたりのあいだの選挙戦が、ハワイという場所ならではの力学を垣間みさせてくれて、なかなか興味深いです。

私はまだ日本にいたときだったので直接は受け取っていないのですが、数週間前にHannemann陣営が住民に配ったチラシが、大きな話題をよび、各方面から強い批判を受けたために、Hannemann陣営はAbercrombie氏に謝罪をしチラシをネットから取り下げた、という経緯があるのですが、そのチラシはこういうものです。(なにしろ正式なサイトからは取り下げられているので、ここでリンクをつけているのは、ある人のブログに掲載されたものです。)チラシ一面を左右ふたつに分け、左側にHanneman氏、右側にAbercrombie氏の経歴などを対照させる形でリストしてあるのですが、ここでHannemann陣営が強調させようとしている二候補の違いというのが面白い。知事のポストなので、ワシントンで議員をしてきたAbercrombie氏と比べて、自分は地元コミュニティで大所帯のビジネス経営や管理に携わってきた実績を強調するのはともかくとして、ほうぼうから非難を浴びたのが、「パーソナル」そして「教育」の項目。「パーソナル」では、1954年ホノルル生まれのHanneman氏に対してAbercrombie氏は1938年ニューヨーク州バファロ市生まれであることに加えて、それぞれの結婚相手の名前が掲載されています。Hanneman氏が地元出身の(相対的に)若手であるのに対し、Abercrombie氏がアメリカ東海岸出身の70代であることを強調したことは明らかですが、さらに、妻の名前をリストすることによって、Hanneman氏が「ローカル」の非白人と結婚したのに対し、Abercrombie氏は白人女性を妻にもっている、ということを指摘した形になっています。また、教育の項目では、Hanneman氏がハワイの名門私立高校に通った後、ハーヴァードを優等で卒業し、また、フルブライト奨学生としてニュージーランドに留学したことが掲載してある隣に、Abercrombie氏はバファロ郊外の高校を卒業し、ニューヨークの大学を卒業し、ハワイ大学に通っていること(ちなみにAbercrombie氏は私が今仕事をしているアメリカ研究学部で学位を取っています)が示されています。ここに込められたmixed messagesがなんとも独特。『ドット・コム・ラヴァーズ』にも書いたように、ハワイでは「ローカル」というアイデンティティが非常に大きな意味をもっていて、その「ローカル」には人種や民族、階層といった意味合いがいろいろな形で絡んでいるので、とくに知事のポストを獲得するにはそうした「ローカル」との結びつきを強調することが重要になってくるのです。が、それにあたって、妻が白人であることはむしろマイナスに作用すると(少なくともHannemann陣営には)考えられているというのがハワイならではで興味深い。そのいっぽうで、Abercrombie氏の最終学歴がハワイ大学で「しか」ないのに対して、Hanneman氏はハーヴァードを卒業しているということを強調したいかのような、一種のエリーティズムも垣間みられる。住民の多くがハワイ大学の卒業生であり、ハワイ大学は運営が州予算に大きく左右される州立大学で、大学は州の経済や文化とも密接に結びついているなかで、ハワイ大学をバカにしているかのようにも受け取れるこの項目は、とくにほうぼうから批判を浴びました。他の項目でも、事実を曲解するような記述があり、Abercrombie陣営が抗議したのはもちろん、Hanneman氏の支持者からも「このチラシは趣味が悪く無神経でHanneman氏の広報にマイナスである」との声があがり、このチラシは取り下げられることになりました。たしかに趣味が悪く無神経で、おそらくHanneman氏のキャンペーンに悪影響を与えたと思われますが、ハワイという土地のありかたと「ローカル」アイデンティティの力学を垣間みるにはなかなか面白い素材ではあります。